
「ヤングレディ」 1964. 8.17 - さくら
2009/11/24 (Tue) 14:18:22
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特別手記『女の不幸を背負って生きる美空ひばりへ愛の手紙』 ・・・林与一
《早くも美空ひばりと林与一の仲がうわさされだした。6月コマ公演に次いで10月大阪でも共演する予定の二人の愛の真相を、林与一につづってもらった。》
【お嬢が僕の「新しい恋人」といううわさ・・・・・・】
あれは、あなたが四谷の新居にひっこされてからまもない、ある夜でした。
「一度、遊びに来ていただけない・・・・・・」
こんな誘いの電話をいただき、幸いテレビの仕事が午前零時に終ったので、一時間ほどおじゃまさせていただきましたが、それ以来、お目にかかれずにいます。
それというのも、八月八日から二十三日まで、名古屋の名鉄ホールでの「東宝劇団八月公演」の舞台げいこに連日追いまくられ、夜は夜で、八月公演期間ちゅうの分のテレビのとりだめのため、忙しい思いをしているからです。
この間、あることで、私は幾度となく苦笑させられたのでした。
あることというのは・・・・・・
「ひばりと林与一は恋人」
「ひばりと与一は、お嬢・二枚目と呼び合う仲」
こんなうわさが流れ、ある女性週刊誌には、
「美空ひばりの最も親しい友は、林与一・・・・・・」
と書かれたことです。
「けっこうなうわさです。ほんとうに光栄ですよ」
うわさや、この女性週刊誌の記事について聞かれるたびに、苦笑しながら、私はこう答えてきました。
これも、コマ劇場の六月公演「女の花道」における、お嬢と私の共演に芽ばえたうわさのようです。
お嬢と私は、コマの舞台の上で、激しく慕情を燃やし合う恋人を演じたのでした。
客観的に見て、そんな印象をあたえるふんいきが、お嬢と私の間にあったことは確かだろう、と私自身考えています。
それに、コマ公演が終ってからしばらくして、お嬢がTBSの「美空ひばり劇場」に出演したとき、私が、お嬢の好きなサンドイッチをおみやげに、お見舞いに行ったこと・・・・・・。
これとて、お嬢と私の仲が、単なる友だち以上であることを物語るエピソードとして取り上げられなした。 ・・・・・つづく
Re: 「ヤングレディ」 1964. 8.17 - さくら
2009/11/25 (Wed) 15:25:49
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【役作りのために努めた恋人どうし】
ほんとうのことをいうと、あなたとの仲をうわさされ、また記事に取り上げられるのがおそかった、と感じています。
〈こんなに仲よくしていると、いろいろなうわさを生み、書き立てられるのじゃないか・・・・・・〉
コマ劇場であなたと共演しているとき、すでに私自身、こんな覚悟をしていました。
ドーランを毎日塗ってあげたり、気つけをいろいろ教えてあげたり・・・・・・。
しかし、それはほんとうにあなたと恋人らしいふんいきでしばいできるようにと願ってのことでした。
いわば、あなたと私の役作りだったのですが。
舞台で恋人役をやるとき、私生活でもそのつもりになり、ほんとうの恋人らしい気持にならないと、私は演技できません。
それで、毎日そのための努力を続けたのですけど、私にしてみれば、恋人説といううわさは、光栄であると同時に、役作りに成功した・・・・・・こんな気持ちすら覚えます。
それに、コマ劇場で共演しているとき、たまたまお嬢の離婚問題が起こったこと・・・・これも、うわさに拍車をかけたと思われます。
【互いにつらかった離婚前後】
離婚前後のお嬢は、ほんとうにつらそうでした。
旭さんとの仲が気まずくなっていることは、舞台げいこのころから私は気づいていました。
お嬢のママの口からも聞いていましたし、公演が始まってからは、あなたの口からも、いろいろ悩みを打ち明けられました。
人間の物の考え方、人をどう信じたらいいかなど。
しかし、おとなの社会やおとなの世界を知らない私には、一般論しか話せなかったけど・・・・・・。
コマ劇場の初日を迎えたころのお嬢は、とても暗かった。
何かを思いつめ、悩み、そして、芸に自分のすべてを傾けようとすればするほど、あなたの心の中で苦悩がつのるような、そんな感じでした。
しかし、あなたはそんな自分と必死に戦い、舞台に激しく情熱を燃焼させていました。
〈少しでも早く、明るくなれるふんいきを作ってあげなくては〉
共演しているみんなで考え、ボーリング大会をしてみたり、いっしょに食事をする機会を持ってみたり、宴席をともにしたり、宴席をともにしたり・・・・・・。
みんなのそんな願いが実って、あなたにいつものような、明るさがよみがえったのは、中日を過ぎたころからでした。
そんなころからです。
私はお嬢との間にほんとうに恋人らしいふんいきが持てるようになり、公演が悪く評価されることは、けっしてないだろう・・・こんな自信もわいてきました。
別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - さくら
2009/11/13 (Fri) 00:06:49
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『2人の雪之丞ご対面』 (大川橋蔵 ☆ 美空ひばり)
〜『雪之丞』では先輩格のひばりちゃん、目下『弁天小僧』で大忙しですが、橋蔵雪之丞とここにご対面、つきぬ話題のかずかずをどうぞ!〜
【大作と取り組む】
橋蔵 = やあ、弁天さん、お待ち遠さまでした。
ひばり= 今晩は、雪之丞さん。
橋蔵 = マミイも『弁天小僧』で忙しいんでしょう。
ひばり= ええ、そうなの、実は昨日、大阪の歌舞伎座へ『弁天小僧』を見にいったの・・・・。
橋蔵 = それは、それは・・・・よかったでしょう。
ひばり= そうしたらネ、片岡さんが大きな声で私を呼ぶのよ。
橋蔵 = ああ、ボクのいた菊五郎劇団の総務部長さんネ。
ひばり= 客席で、やあ、ひばりちゃん、と挨拶されちゃった。でも舞台をちょっと覗いて帰るつもりだったから、楽屋に伺う用意がしてなかったの。
橋蔵 = それはそうだろうナ。よくあるよ、そんなことは・・・・。
ひばり= だから、今度片岡さんにお会いになったら、よろしく仰有ってネ。
橋蔵 = うん、承知しました。ところでマミイの手が毛ムクジャラだと思ったらマッフをしてるんじゃない。
ひばり= 失礼しちゃうわ。毛ムクジャラの手だなんて・・・・。これ、頸巻と一緒に買ったのよ。(と言いながらひばりちゃんは、暖かそうな毛皮を手からはずします)
橋蔵 = 何の皮だろう(?)
ひばり= テンかイタチの皮じゃないかしら、リスじゃないわネ。
橋蔵 = マミイがやってると可愛らしいけど、ボクがやったんじゃジジイに見えるネ。(笑)
ひばり= お賞めにあずかって有難うございます。(笑)
橋蔵 = タテにかぶればシャッポになるし・・・・(笑)
ひばり= そうネ。でも、これ暖かくて好きよ。セットで待ってる間も使ってるの。
橋蔵 = ところで、仕事の話になるけど、『雪之丞変化』は、ちょっとシンドいよ。
ひばり= 女形だし、三役だし、年末という悪条件ですものネ。
橋蔵 = ふつうだったら、一部、二部、三部作といった大作ですい。それを一本でまとめなければならない。
ひばり= 回想場面で、雪之丞の子供のころの父親、清左衛門になるんでしょ。
橋蔵 = そう。清左衛門も入れて三役になるんだよ。衣裳を代えるのがまた大変だ。マミイも苦しんだろうと思うけど、ダブル・ロールはシンドいね。
ひばり= 私もそれで苦しんだワ。一つの画面に二役の自分が入るというのは、気を使うわネ。
橋蔵 = スタッフの人も気を使うし画面に合わねば困るし・・・・。
ひばり= 新聞で見たんだけど、トミイの雪之丞は私のと違うのネ。あの頭は、島田なの(?)
橋蔵 = あれはネ、島田をくずした頭なんだ。家にいるときは、もっぱら“メガネ”の頭です。
ひばり= 女形になった感想はいかが・・・・。
橋蔵 = 同じ画面に女優さんが出てくるんで、とてもかなわないナ。やっぱり、本ものの(女)じゃないものボクは・・・・。
ひばり= そうでしょうネ。私も、『弁天小僧』で男になるけど、本ものの男性と一緒になると、どうしても見劣りがしてしまう。 ・・・・・つづく
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - 玉織姫
2009/11/13 (Fri) 18:34:44
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いつもご苦労様です。
ところで、別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号は、何年何月号発売ですか
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - さくら
2009/11/14 (Sat) 01:48:42
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《昭和35年1月30日 一月下旬号》です。
橋蔵 = 悩みは同じだネ。しかし、スタアになったからには、一度は『雪之丞変化』をやってみたいと思っていたんだ。年末に来て、早く撮り上げなければならないのはつらいナ。考えてみれば、最悪の状態だものネ。
ひばり= その気持、よく分るのよ(笑)『弁天小僧』も、いわゆるスタンダード・ナンバーでしょ。それをかけ持ちでやらなければならないから、私も最悪の状態というわけ。忙しくて、ゆっくりしていられないのが残念よ。
橋蔵 = でも、グチを言ってもはじまらないよネ、いまさら・・・・。大いにファイトを燃やして、お客さまに喜んでいただけるような作品にしたい、と思うんだ。グチはグチ、ファイトはファイトというわけだナ。
ひばり= 私も『雪之丞変化』を撮ったときは、寒かったのよ。コンデションの悪い巡り合わせネ。
橋蔵 = マミイは、どんな役をやりたいの・・・・。
ひばり= 私はね『鶴八鶴次郎』とか『婦系図』なんかやりたいナ。夫婦の愛情の美しさといったものを、今の若い女性に知らせたいと思うの。私のイメージにある女は“古い女”かも知れないけど、惚れて惚れて、惚れぬく女なの。そんな女性に魅力があるのよ。私の相手になるような男性がいないかしら。
【安い、安い 最高の倖せ!】
橋蔵 = 『鶴八鶴次郎』や『婦系図』は新東宝や大英でやってるけど、再映画ものを他社でやると、二年間は撮れないんじゃないかナ。この前、新東宝で『湯島に散る花』をやったから、しばらくは出来ないんじゃないだろうか。
ひばり= それじゃ『婦系図』もちょっと無理ネ。
橋蔵 = 新しいものをやりたいと思うけど、企画の面でなかなか難しいんだナ。それで再映画が登場するわけだけど。再映画も大いに結構だと思う。監督さんもちがえば俳優もちがう。それぞれ違ったスタアの味が出てくるものネ。マミイの『雪之丞』もいいし、ボクの『雪之丞』もあっていいと思うんだよ。
ひばり= ファンの方も、それで喜んで下さるし・・・・。再映画ものは日本人に共通する要素を多分に含んでいるわけよ。私は『婦系図』を意地でも撮りたいナ。
橋蔵 = オッ、すごく張り切ってるじゃない。(笑)
ひばり= 『婦系図』は昔からの私の夢なの。まして大先輩の長谷川一夫先生はじめ、山田五十鈴さん、花柳さん、水谷さんが演じているでしょ。大映の鶴田さん、山本さんといった最高のスタアが演じているんですもの。やってみたいのは当り前じゃない(?)
橋蔵 = なんでもそうだけど、演りたいと思ったときに演らないとダメだね。しばらくすると、気分が抜けちゃうんだ。
ひばり= まったくそうね。お酒に酔ったとき、ふッと眠くなるでしょ。『十五分だけ、失礼します』なんて言って、グッと眠っちゃうと、その後が実に爽快ネ。
橋蔵 = マミイもなかなかシャレたこと言うじゃない。(笑)
ひばり= ホントにそうよ。最高の倖せだと思うわ。十五分間の眠りは・・・・。
橋蔵 = 安い、最高の倖せだなァ。(笑)それでゴキゲンになれるんだから、マミイは最高の倖せものだよ。(笑)
ひばり= あら、言ったわネ。(笑) ・・・・つづく
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - さくら
2009/11/14 (Sat) 22:38:47
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【イキの合ったラブ・シーンを!】
橋蔵 = しかし、考えてみればマミイとのつき合いも長いネ。
ひばり= トミイ、マミイと呼び合って、もう何年になるかしら。
橋蔵 = あんまり、昔のことうを言うのはよしましょうや。なんだか年をとり過ぎたような気がするからネ。(笑)
ひばり= セットの中で恋人同士や夫婦になっても、一歩外に出ると他人になっちゃうでしょ。しかし、私生活でも仲よくおつき合いするのが本当だと思うナ。
橋蔵 = それは勿論だよ。
ひばり= 遊びながらお仕事をするというと、ちょっと誤解を招く恐れがあるけど・・・・。ふだんから仲よくしてた方がお芝居も自然にゆくんじゃない?
橋蔵 = そうなんだ。しかし、それが誤解を招くこともあるし、ゴシップの種にされることもあるけれど・・・・。
ひばり= ファンもほのぼのとした気分でラブ・シーンを見てくださると思うナ。
橋蔵 = あの人は、相手のだれかと婚約してるなんてことが分かると、いくらお芝居でも気分がのらないということがある。
ひばり= そうね。『べらんめぇ芸者』のときがそうだったのよ。江原ちゃんにはバンビの中原ちゃんというフィアンセがいるでしょ。それを思い出しちゃって、やっぱりおかしいのよ。
橋蔵 = その話で思い出したけど、ボクもある監督さんに聞いたことがあるんだ。
ひばり= へえ、どんなこと(?)
橋蔵 = 相手役にネ、恋人があった場合、どうしても気分が出て来ない、タイミングが合わない、どうしたらいいんでしょう、と聞いたんだ。
ひばり= そういう疑問がどうしても湧いてくるわよ。
橋蔵 = そうしたら、監督さんに言われちゃった。「何をいうか、仕事に入ったからには、そんな気持を持っていてはいけない。相手が恋人を捨ててしまうように、自分に惚れさせるぐらいの意気込みでやれ」っていわれちゃった。
ひばり= ワア、すごい。(笑)
橋蔵 = 少しばかり極論で、オーバーだとは思うけど、そういうものかも知れないナ。“真の芝居”というものは、そういうものだと気がついた。
ひばり= こわいのね。お芝居とはいいながら・・・・。(笑)
橋蔵 = とは言っても、それが出来ないんだナ、ボクには・・・・。
ひばり= それホント?(笑)
橋蔵 = ホントだよ。(笑)それがボクの欠点で、それほどまでして他人の恋人を奪おうなんて思わないよ。
ひばり= さすがはトミイネ。(笑)
橋蔵 = 冷やかすなよ。(笑)
ひばり= お互いに好意的な感情を持ってると、セットの中に入ってもほのぼのとしたふん囲気が出て仕事がやりやすいわネ。
橋蔵 = イキが合う人と合わぬ人がいるネ。
ひばり= 固くなっちゃう人がいるけど、そんな時は困っちゃう。ある雑誌でトミイが私のことにふれて、「ひばりとラブ・シーンを演るとき、ほのぼのとしたふん囲気を出してくれるので、本当の恋人のような気がする・・・・」と言ってくれたのネ。あれを読んで、私、とっても感激しちゃった。
橋蔵 = いいから、いいから・・・・。あんまり感激されちゃうと、後がこわいや。(笑)でも、マミイって、ふん囲気を出すのがとてもうまいよ。ボクは本当のことを言ったまでデス。
ひばり= キャー。(笑)大光栄ネ。
橋蔵 = 山田五十鈴さんは、共演者に対して、本当の女房のようにつくすって話しなんだ。実にいたれりつくせりで、本当の女房以上につくすというけど、それが本当だろうナ。その気持よく分る。
ひばり= ええ、わかるわネ。そのうちまたトミイの奥さん(?)になってあげるわ。(笑)
橋蔵 = 本番以外のときでも、マミイは優しく、春風のようななごやかさを出してくれるんだナ。やっぱり大先輩のカンロク充分だ。ほかの女優さんもみんなマミイを見習ってるよ。相手の気持を汲んで愛情を注ぎ、たのしくやってる点は実に偉いと思う。
ひばり= モジモジしちゃうじゃないの・・・・。そんなにほめられちゃア。(笑)
橋蔵 = イヤ、ほんと。カケネなしの言葉デス。(笑)照れることなんかありませんよ。ひばりお姉さん。(笑) ・・・・・つづく
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - さくら
2009/11/16 (Mon) 03:12:11
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【男も女も心が大事・・・・】
ひばり= トミイは利口すぎるって人からいわれてるけど・・・・。一つだけヌケてなければいけないんじゃないかしら。全部に柵を張ってるという感じなのよ。だから、出入り口が必要なんじゃない?
橋蔵 = 自分で全部やらねばならぬというのがボクの性格らしい。そこから抜けられないんだナ。逃げ口上になっちゃうけれど・・・・。
ひばり= そういう風に、全部、自分でやろうとすると、痩せちゃうわよ。このごろ折角太ってきたのに・・・・。
橋蔵 = マミイの言う通りだネ。
ひばり= だから、早く奥さんを貰いなさいよ。テキパキした、利口なひとで、トミイにハッパをかけるようナ・・・・。(笑)
橋蔵 = そういう人がいたら理想的デス。尻に敷かれて満足です。
ひばり= トミイは、恐妻家なのネ。(笑)
橋蔵 = ウン、ボクは恐妻家なんだよ。恐妻家でなければ、ウチの中がうまくいかないと思うんだ。
ひばり= そうかも知れないわネ。
橋蔵 = どこのうちでもうまくいってる秘密をさぐると、そこのダンナさんが恐妻家なんだよ。
ひばり= そういえば、そうかも知れないわネ。
橋蔵 = ボクは、結婚したら奥さんを大事にするナ。結婚だけは幸福なものにしたい・・・・。もう、結婚したら、奥さんは一歩も外に出さないし、人にも見せない。(笑)
ひばり= まあ、トミイったらケチねえ。人に見せないの。(笑)
橋蔵 = ウン、絶対に見せない。
ひばり= キャー。(笑)すごいナ、トミイは・・・・。でもいいわよ。私は見にゆくから。(笑)
橋蔵 = フトコロに入れて、しまっておくんだ。(笑)
ひばり= まるで仔犬を可愛がるみたいじゃないの。(笑)
橋蔵 = 大きなことをいうようだけど、愛する自信がある。
ひばり= ずい分、素直なのネ。トミイは・・・・。
橋蔵 = 女の子は、素直なのが一番いいんだ。
ひばり= トミイは、どういう型の女性が好き(?)
橋蔵 = ポッチャリ型が好きだナ。ラブ・シーンでポキリと折れるようなのはイヤだよ。(笑)
ひばり= そういえば、トミイの部屋には、ジナ・ロロブリジダやソフィア・ローレンの写真が飾ってあるわね。さては、グラマーが好きなんだナ。(笑)
橋蔵 = 日本人の写真を飾っておくと、さては、あれが橋蔵の彼女だナ、ということになって、問題になるけど、外国の女優さんだからいいんだ。この間もハワイのボクの後援会々長さんが、はるばるやって来たんだよ。ある雑誌のシャ強いでこの女優さんがバックに写っていたもんだから・・・・。ボクの奥さんじゃないだろうかと心配して。(笑)
ひばり= とんだ濡れ衣ネ。(笑)
橋蔵 = まったく、ひどい目に合った。(笑)
ひばり= 女はハートだと思うわ。美人、不美人に関係なく・・・・。
橋蔵 = ハート・ブレイク・ホテル(笑) ・・・・・つづく
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - さくら
2009/11/17 (Tue) 00:08:44
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【時間延長で芸談に花が咲く】
ひばり= トミイは、外国映画をよく見てるんでしょ。
橋蔵 = 『大いなる西部』はよかったナ。グレゴリー・ペックはタフで背が高くて、しかも、その身体の魅力だけじゃない。心の強さで男の魅力を発揮している。
ひばり= 女ばかりじゃない。男も心よ。
橋蔵 = そうなんだ。身体がキャシャでも、女が一生をまかすのは、男の心に対してなんだ。男の心の強さに女は惹かれると思う。あの映画のように、男の心の強さを描いた映画をボクも撮ってみたいんだ。
ひばり= 甘さもあるしネ。
橋蔵 = 人間だれだって、いい時もあれば、落ち目のときもある。落ち目のときは、カクッとなってしまうもんだが、そんなとき、また立ち上がれるような男でありたい。『大いなる西部』は、そういう意味でいい映画だと思う。グレゴリー・ペックみたいな役は、うらやましいと思う。
(お二人の話題はますます佳境に入ります。突然、橋蔵さんは、お付きの人に向ってお伺いをたてました。「十時までに家に帰るつもりだったけど、一時間、延長してもいい?」するとお付きの人がOKを出しました)
ひばり= (それをジッと聞いていましたが)トミイって、お付きの人に全部まかしてるのネ。
橋蔵 = 最近、ボクの寝る時間も、起きる時間も、全てまかしてるんだよ。つまり、スケジュールを組んでもらってるんだ。父(菊五郎)が厳しかったもんだから、朝もキチンと起きる習慣がついている。
ひばり= それじゃ、身体がモタないでしょ。
橋蔵 = だから、仕事のないときはいくらでも寝ている習慣をつけようと思ってネ。いまその習慣をつける最中なんだ。
ひばり= それは名案だワ。
橋蔵 = 陽が沈むころ、のこのこ起きて朝ご飯を食べることもあるんだ。(笑)
ひばり= 実は私もそうなのよ。あんまりよく寝ているんで、家の人が心配するの・・・・。果して、イキをしてるのかしら、なんて心配になって、ソーッと私の寝息を聞きにくることもあるのよ。(笑)
橋蔵 = 休めるときに休めるようにしないと・・・・。何しろ不規則な生活だものネ。
ひばり= だからこのごろトミイも太ってきたのネ、大へん、いい傾向よ。
橋蔵 = ボクのクセも、何だかマミイに似てきちゃったナ。(笑)
ひばり= トミイはお昼の食事もカツドンならカツドンで一年間も続けたという話だけど・・・・。(笑)
橋蔵 = さすがに一年目には飽きちゃってエビフライに代えたけれどネ。(笑)
ひばり= 私もトミイとそっくりなのよ。宿屋は代えないし、ちょっとヘンな話だけれど、トイレだって同じ場所。(笑)
橋蔵 = ほかの処が空いていても、空くまで待っていたりするんだから・・・・(笑)
ひばり= 巡業に行くと、そういうわけにはいかないけれど。
橋蔵 = それはムリだ。(笑)巡業はとても同じ具合にはいかないよネ。(笑)
ひばり= 今夜だって、トミイと二人きりだったら、水たき屋でご飯を食べているところよ。
橋蔵 = そんなところだナ。今夜は近代映画さんの仕事だから、こうやって天プラなんか食べているけどサ。(笑) ・・・・・つづく
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - さくら
2009/11/17 (Tue) 23:30:25
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ひばり= ところで、私いまちょっと心配ごとがあるのよ。
橋蔵 = どういうこと(?)
ひばり= お祖母ちゃんがイガンなのよ。
橋蔵 = それはイカンな。(笑)いや、笑いごとじゃなくて、ご心配でしょう。
ひばり= 病気ってイヤだわ。
橋蔵 = まったくだネ。ボクなんかも、ものごとが順調にいってるときは爪が長いんだ。
ひばり= えっ?それどういうことなの・・・・。
橋蔵 = ものごとがゆきずまるとネ、爪を咬んでしまう妙なクセがあるんだ。(笑)
ひばり= へんなクセねえ。(笑)
橋蔵 = だから、小指の爪なんか長く伸ばしてる人がいるでしょう。そういう人を見ると。バクっと食べたくなっちゃう。(笑)
ひばり= こわい、こわい。(カメラマンに向って)あんたなんか爪を伸ばしているから、トミイの前に行かない方がいいわよ。(爆笑)
橋蔵 = ボクが難しい顔をしているときは、ほんとに近よらない方がいい。爪がなくなっちゃうからネ。(笑)
ひばり= 私にもヘンなクセがあるのよ。髪の毛を唇の傍まで持ってきちゃって、すり合わせるの。ヘンなクセでしょ。(笑)
橋蔵 = ハエが手をする、足をする・・・・という文句を思い出すじゃないか。(笑)
ひばり= 以前にネ、島耕児二先生の写真に出たことがあるの。ヒマなときがあって、私がボンヤリしていてこのクセを出しちゃったんです。
橋蔵 = フーン。それから・・・・。
ひばり= そしたら、島先生が、これはイケル、って言うの。どうしても映画に使うっていうんでしょ。私、イヤだ、イヤだ、っていったんだけど、ダメなの。
橋蔵 = そいつは面白いじゃないの。(笑)
ひばり= 照れくさいから、いきなり本番でやったんだけど、傍にいたスタッフの人がプッと笑い出してNG。(笑)
橋蔵 = よっぽどケッサクだったんだろうナ。
ひばり= なくて七クセって言葉があるけど・・・・。
橋蔵 = クセのないような人でも、探してみたら七つや八つのクセは持ってるんだろうナ。
ひばり= ホントね。
橋蔵 = しかしネ、マミイ。こいつは使えますよ。時代劇の殺陣にピッタリだ・・・。
ひばり= また冷やかす。(笑)
橋蔵 = いや、いや、実にいい殺陣なんだ。パラリと垂れ下がった髪の毛を、かき上げるようなシグサをする・・・・。しかし、そのときは、電光一尖端
!パッと刀で相手を斬りつけているんだ。
ひばり= ワアーすごいじゃないの・・・・。“垂れ髪一刀流?”
橋蔵 = とんだ芸談になっちゃったネ。(笑) ・・・・・おわり
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - 夾竹桃
2009/11/22 (Sun) 20:05:25
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私はひばりさんが出演した映画で実際に映画館で
見たのは東映作品のみでした。
お亡くなりになってから、ビデオやDVDを購入
10代の頃出演した作品をみました。
よい作品が多いのに驚きました。
「競艶雪之丞変化」は好きな作品です。
残念ながら大川橋蔵の作品はみてないです。
Re: 別冊近代映画「雪之丞変化」(大川橋蔵主演)特集号より - さくら
2009/11/23 (Mon) 15:50:13
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夾竹桃さん、私も同じくビデオやDVD、テレビ放送で見た口です。
丁度、今、『戦う女たち』〜日本映画の女性アクション〜 (四方田犬彦・鷲谷花 編集)を、読んでいるのでいます。目次に「視線と眩暈(めまい)・・・美空ひばりの異性装時代劇 ・・・板倉史明」というのを見つけたからなんですが。
編集の四方田氏が、「女の戦いはなぜ悲しいのか」という項目で、この本の各論文を紹介している部分があるので、そこを一寸コピーしちゃいます。
《板倉史明の「視線と眩暈・・・美空ひばりの異性装時代劇」は、一九五〇年代から六〇年代という日本映画の黄金時代に、東映でおびただしいチャンバラ映画に出演した美空ひばりを丹念に追跡した論文である。ひばりは「鞍馬天狗」シリーズの杉作少年のように、孤児の少年少女を演じることから映画界に参入した。だが彼女は高峰秀子や松島トモ子とは違い、子役時代の後にももっぱら男役を演じ、「異性装時代劇」の中心的存在へと大きく変身を遂げていった。とはいえ、たとえ男役を演じようとも、ひばりの役は内面的には女性として造形されていた。男装とは社会的に遂行不可能な行為を実現させるための動因にほかならなかった。そして同時代の少女観客はそうしたひばり映画を観ることで、男性中心社会での被圧迫感から解放され、空想裡に夢や欲望の充足を体験した。板倉はこうしたひばりの独自のあり方を精緻に辿った後、彼女が三役を務めた『競艶雪之丞変化』(一九五七年)を取りあげ、それが単に女性観客にファンタジーを提供するだけではなく、性とジェンダーをめぐる認識の混乱を観る者にもたらし、さまざまに多様な解釈を可能とする構造についた分析的に述べている。このフィルムが体現している眩暈のラディカリズムは、実はジェンダーの枠組みが揺らぎつつある今日においてこそ、再検討されるべきものである。》
何だか、面白そうでしょ!
「女性セブン」 1975. 7.30 - さくら
2009/11/19 (Thu) 01:34:42
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特別寄稿・黒田征太郎 『恋文的美空ひばり論』 〜「あなたの歌声がなかったら、今日の僕はあり得なかった」
《戦後のどさくさのなかで過ごした屈折の少年時代、彼の心を救ったのは美空ひばりの歌声だった。以来、いつか彼女に会える日をと、流浪の青春を旅した彼が、念願の邂逅を果たしたのは、彼女が、誹謗中傷のなかで羽を閉ざしている最中だった。そこに見た女王ひばりの素顔とは・・・・》
美空ひばり様
僕、黒田征太郎は貴女の唄により、どれほど元気づけられ、楽しませていただいたか、いちいち数えあげていたら両手両足の指全部を使ったって追いつかないはずです。
昭和十四年の一月に、大阪は道頓堀で生れた僕は、間もなく神戸の近くの西宮で育ち、昭和二十年夏の空襲で滋賀県神崎郡能登川町という田舎町に疎開し、一か月の後に敗戦、そして次の年の夏、父親を亡くしました。
一家の大黒柱を亡くした僕たち家族構成は、祖母、母、姉、僕とあまり年の変わらない妹二人、そして七つ年下の弟の七人でした。
しばらくの間は家具やら母親の衣類などの売り喰いで生きていたのですが、敗戦のドサクサのあの時代でしたのでたちまち底をついてしまい。間もなく母は働きに出だし、祖母と姉に育てられました。
大げさかもしれませんが、坂道を転がるようなスピードで貧乏へのまっしぐらと、七つ年下の性別を感じることのできない弟を除くと、まったく女ばかりの家族、そして、疎開者であることの被害者意識などにとりまかれて、子供なりに屈折した毎日だったような気がするのです。
そんな僕の逃げ場所の一つにガ―ガ―と雑音のひどいラジオから流れてくる数々の歌謡曲の世界があったのです。
祖母にしかられながらも必死でラジオにかじりついて現実逃避したあの頃ことは、なぜか西日があかあかとはいる僕たち一家が住んでいた葬儀屋さんの二回の情景とオーバーラップして確実に想い起こすことができるのです。
そして、ほぼ祖母の浪花節聴取専用だった古びたラジオのスピーカーから、ある日・・・・
美空ひばりさん、貴女の声が飛び出してきたのです。
それまでは、同調できる部分はあっても、あくまでも、大人の世界だとしか感じられなかった、笠置シズ子さんやら田端義夫さんのモノとは違う、なんといっていいのか言葉がうまくさがせないので困ってしまうのですが、ようするに、ブルブルと体がふるえそうになったのでした。
ブルブルと体がふるえそうになったのは決して僕だけではなくって、日本中がそうだったことは時代が証言しています。
電柱にベッタリと貼られたシルクハットにタキシード姿の貴女のポスターがほしくって、ついに、夜中にポスターを盗んだのもその頃です。
夜中にポスターを盗んだ少年やら青年が何百人何千人といたってちっとも不思議でない、スーパースター第一号が、美空ひばりさん、やっぱり貴女だと僕は確信しています。 ・・・・・つづく
Re: 「女性セブン」 1975. 7.30 - さくら
2009/11/20 (Fri) 00:00:08
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【あなたの歌をきいて家出して、それが僕の人生の幕あきだった】
さて、貴女の唄声に救われながら、中学、高校と進みはしたのですが、生まれついての勉強嫌いと母親に養われている後ろめたさが、僕の背中にはベッタリと貼りついてまったく自閉症の半歩手前の毎日。気が狂いそうに不安で不満でどうしよもなかったのですが、せめてもの特効薬が、美空ひばりさん、貴女のマドロス物歌謡曲を心の中でガナルことだったのです。自閉症の自意識過剰でありました僕は、人の前ではろくにしゃべることすらできなかったのですから、ましてや、歌を唄うなんて、くちずさむことすらできませんでしたが、得体の知れない不安、不満をなんとか自分の中で合理化しようとして、精いっぱいに心の中で貴女のマドロス物をガナルと、なにやら気が晴れて、そしてしまいには自分自身がいとおしくなって、わけもなく涙ぐみそうになったものでした。
御承知の通り、滋賀県は近江盆地といわれる土地で琵琶湖を中心に周囲は山ばかりです。右を向いても左を見ても、かならず視線は山につきあたってしまうのです。でも、マドロス物をガナルと僕の心は果てしなく山を突きぬけて青い海に出ることができるのです。自分の周囲の世界とはまったく反対の、男らしい、スカッとした船出が僕をまっているのでした。でも、短い心の航海が終わった後はやっぱり同じ不安な風景しか僕の囲りにはなくって、美空ひばりさん、貴女は七色のテープとドラの音に送られて水平線の向こうに消えていったのです。
そして、何十回何百回と心の航海を繰り返しているうちに本当に僕は横浜港から出帆することになるのです。
家出、そのことの是非をここで話そうとは思いませんが、とにもかくにも、僕が自分のためになにかをやろうと思った起爆剤は貴女の唄に間違いありません。
家を飛び出て、船乗りとして東南アジアの海を航海したあの十六才の頃、僕の世の中へのスタートは海だったのです。
この話を他人にしたって、できすぎている話だと信じてくれない人がいますが、その人たちはきっと、少年の頃の感情がいかに素直なものなのかということを忘れてしまった人たちだと思います。
僕自身が相当にヒネクレ者だとは思っておりますが、あんなに一直線に最初の人生に出帆できたことだけは充分満足しているのです。十六才で船に乗ったなどといえば「苦労したのですネ」と、たいがいの人がいってくださいますが、僕は僕のために最初の人生がやれたのです。貴女のマドロス物が、もしなかったら、僕は人生のスタートを自分で決定することができなかったかもしれません。
「ほんまに、ひばりさん、オオキ二」と。 ・・・・・つづく
Re: 「女性セブン」 1975. 7.30 - さくら
2009/11/21 (Sat) 01:32:39
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【テレビに出れば、いつかあなたに会える、それだけが夢だった】
さて、広告文風にいわせていただきます。十六才で家出、船乗り、バーテンダー、ボーイ、土方、工員やらを転々、現在に至るといった筋書きでイラストレーターなどと世間から呼んでいただいて生活するようになったのが七年前、アメリカ、カナダの放浪から帰ってきて、野坂昭如さんの小説『水虫魂』に絵をつけさせていただいた頃からでした。
気がついてみるとラジオ、テレビの司会などにしゃしゃり出ているありさま。でも、いつも、テレビ局やらラジオ局のロビーで、美空ひばりさん、貴女に会うことができはしないかとキョロキョロしていたのです。
そして、一昨年の冬、テレビマンユニオンの村木良彦さんに新宿の飲み屋で、今度美空ひばりの番組を一本制作するのだけども、レポーターをやってみる気はないかと聞かれたときにはおもわず「ヤッタ!!」と思いました。コミュニケーションの方法の一つとしてのテレビそのものにも興味はあったのですが、テレビ出演をすることの、かなりの部分が、ヒョッとすると、美空ひばりさんと会えることができるのでは、だったのですから、「ヤッタ!!」とさけんだって当たりまえでしょう。
僕は制作の始まる以前から、だれかれかまわず、「美空ひばりのドキュメントフィルムのレポーターやるのやで!!」とわめきちらしたものでした。
さて、ある寒い朝、上野駅から僕たちは山形に向って出発したのです。いま僕たちという言葉を使ったのですが、貴女方と違う車両で僕はドキドキしていたのでした。そして山形から酒田、秋田と巡業に回る美空ひばりショーを追いかけたのですが最後まで、貴女には直接に会えなかったのです。当然のこととして実物の貴女を遠くから眺めることはできたのですが。でも、貴女が舞台で唄っておられるソデで僕が独り喋りで美空ひばり論?その場面は、とにかく同じ画面に貴女と映るとのこと、それだけで大満足だったのです。後々になって知ったことですが、番組のスタッフ連中が気を使いすぎて、ひばり伝説にとらわれて、ハレモノにさわるように進行したがためレポーターであった僕が御挨拶すらできなかったのが事実らしいのですが、僕が貴女のことを「エラソウにしやがって」とか「やっぱり女王風を吹かしてる人やった」と思っても仕方のない場面でした。ハッキリと自分の意志を伝達することをしないで陰に回ると「イバッてる」などとの風評をたてる人が多い世の中ですが、いつも追われる人の宿命なのでしょうか?
遠景としての貴女を垣間みただけで二年近くが過ぎました。そして僕は毎夜の酒のサカナ二』あなたの唄を悪声でガナル日が続きました。
あの日も前夜の酒がキキすぎて昼近く自宅で目覚めた僕は泊まっていた岡林信康と二人でテレビを見ながらなんとなく演歌の話を交わしたのでした。
それから一週間の後、岡林信康から一本のテープが届いて一曲の唄がはいっておりました。題名は『月の夜汽車』・・・・まさか、このテープが、美空ひばりさん、貴女と僕たちを近づけてくれるとは・・・・。 ・・・・・つづく
Re: 「女性セブン」 1975. 7.30 - さくら
2009/11/21 (Sat) 22:35:00
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【残った料理を折り詰めにする優しさがうれしかったあの夜】
『月の夜汽車』は貴女の『真赤な太陽』の作詩家として有名な吉岡オサムさんの手を経て、作詩・作曲・岡林信康。歌・美空ひばり『月の夜汽車』として誕生が決定したのです。
岡林信康も僕も信じられませんでした。まるで熱に浮かされたようにして貴女の吹き込み風景を僕たちは見ていたのです。
終わった後、「御一緒に食事をしませんか?」と貴女のお母さんからさそってもらったときは僕も岡林も「どうしよう」とあわてたのですが、エイッ!!と覚悟を決めて同行したのでしたネ。
なにがなんだかわからない間に僕は酔っぱらっていました。僕の席の前に貴女がいて、その左に岡林、そして貴女のお母さん、それから、僕の友人たちがなにやら興奮しながら四、五人も御一緒させていただいているのです。酒の勢いを借りて僕はいかに貴女の唄によって生きてきた部分が多いかみたいな話をベラベラとしゃべりました。そして気がついてみると岡林も僕も貴女のことを「ひばりさん」と気安く呼びかけて、ましてやお母さんのことを「オッカアオッカア」といっている始末、役三十年間、僕の水平線の向こうにあった貴女が全く普通の人として目の前にいることの感激は忘れることがないでしょう。
いや、普通の人ではないのです。あんなに世の中に明るい唄声を贈り続けてきてしかも僕たちに気を使わせない配慮をしてくださった貴女の優しさ大きさは普通ではないのです。「これからわが家で飲みましょう」と気軽にほんとに気軽に突然貴女とオッカアがいったので僕たちはまるで子供みたいにお宅にうかがったのでした。そうそう、あの料理屋で橋をつけなかった料理を折に詰めて家に持って帰った貴女、僕はあのときホンマモノを見たのです。料理を作ってくれた人に対する優しみであり、初心を忘れていない才能、しかも当然のこととしてミミッチクないし気障でもありませんでした。
ひばり御殿と世の人々はヤッカミ半分でひやかしますが、貴女ならばあのお宅の十倍も百倍もの家に住んでいたって当たりまえです。このことは、先日のお誕生日の折にうかがった野坂昭如さんも同感だそうです。何百万円の鯉をたくさん池に放してデカイ家に住んでいるオッサンの何百倍も貴女は敗戦のドサクサからこっちズーッと世の中に夢をプレゼントしてくれたのですから。
それにしても居心地がよくって僕たちは真夜中過ぎまでワイワイと勝手きままにやらしていただいて、最後にはオッカアの作ってくださったお茶漬けで仕上げて帰ったのですが、次の日は早朝から仕事だったらしいですネ。本当ならば僕のほうこそが貴女の唄への恩返しをしなければならないのにオンブにダッコで甘えてしまったのでした。
そして、僕にとって一生涯忘れることができないのは、しばらくして貴女とオッカアを新宿のゴールデン街にお連れしたときのことでしょう。ゴールデン街などというと、素晴らしいキラキラの街ですが早い話が旧青線、人一人がやっと通れそうな路地の入り組んだ街に貴女、オッカアは気軽にきてくださったのです。「プーサン」あの店の名前です、覚えていますか?貴女がリクエストに答えて『浪曲子守歌』を唄い出したときはまったく店の中が緊張感ではりさけそうでした。起こるはずがないことが起ったのですからネ。貴女の大きさ優しさがゴールデン街に伝説を作ったのです。そしてその伝説の周辺にいられたことの嬉しさは当分、僕の毎夜の酒をおいしくしてくれるはずです。
ながながと書いてしまいました。美空ひばりさん、そしてオッカさん。ホンマにホンマにありがとう。 ・・・・・おわり
2009/11/17 (Tue) 20:55:04
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今年もビデオ撮影で大変、長時間お疲れ様でした。
毎年食事の時間も無くご協力頭が下がります。
お元気でのご参加嬉しく思いました。
Yさま「ひばりサロン」で拝見しました。
松ちゃんの「歌」今年は最高です!長年の応援、千代ちゃんも大喜びでしょう!!殿、ご苦労様でした!!!
Re: 歌の里まつり - さくら
2009/11/17 (Tue) 23:40:20
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コマさん、「歌の里」楽しかったようですね。
殿、掲示板の管理何時も有難うございます。お世話になっております。
コマさんの報告から、お元気なご様子を知り、安心いたしました。これからも宜しくお願致します。
2009/11/18 (Wed) 20:17:33
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さくらさん暫く振りですね!
名古屋のひばりサロンで「歌の里まつり」のDVDを見せて頂き、松ちゃんのトリでの歌唱素晴らしく思いました。ひばり&スカイでの演奏で歌うのは、
ひばりちゃんになりきってのご出演は、素敵でした。
Re: 歌の里まつり - 玉織姫
2009/11/18 (Wed) 21:14:25
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コマちゃん、お久しぶりです。お元気そうで何よりです。ところで去年の12月お願いしたこと覚えておらえますか。お忙しいとのことで、連絡しようか迷っていました。
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 最終回 - さくら
2009/11/11 (Wed) 22:55:43
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第22回はパス。
「わたしの人生針のムシロのよう・・・」 〜つねに、栄光と悲運が強烈につきまとい続けた波乱の一生。そんなひばりさんの「泣いて笑って恋をした」生きざまを再びいま・・・
美空ひばりは、まぎれもなく戦後最大のスターだった。
まだ焼け跡の残る終戦直後に、わずか9歳でデビューして、またたく間にトップスターの座に駆けのぼり、さらに女王と呼ばれて歌謡界に君臨したひばり。
それだけに、ひばりの真実の姿は、いつも“女王伝説”という虚像の陰にかくれ、生前は虚像だけがひとり歩きしているようなところがあった。
しかし、この連載で改めてひばりの歩いた道をたどり直して見えてきたのは、ひとりの傷つきやすく寂しがり屋の女性の姿だった。
そして傷つき、痛めつけられながらも、なおかつたくましく「今日の我に明日は勝つ」と自分を励ましながら生きてきた、けなげなひとりの女性の姿だった。
「昭和51年に“先生見て”と、ひとつの詞を書いてきた。『雑草の歌』というタイトルで≪生れて今日まで、耐えてきた・・・・・・路ばたにはえる草のような強い強い女に≫という詞。私はその詞に感動して曲をつけレコードになりました」
【“私の人生は雑草なんです。でも、野に咲く花は強いのよ”と】
「あのとき、ひばりさんは私に、“先生、私の人生は本当に雑草なんです。でも、野に咲く花は強いのよ”といってましたが、あれは、本当にひばりさんの生き方の本質をズバリとついた言葉だったと思います」(作曲家・遠藤実さん)
“街の子”として生まれ、デビューし、スターになってからも“雑草”であることを忘れなかったひばり。だからこそ、輝かしい栄光の陰に、いつも悲運がつきまといながらも歯をくいしばって耐えた。
昭和31年2月には、恋人・小野満の子を、妊娠6か月で泣く泣く堕ろすという苦しみを味わい、翌33年には小野と別離。19歳から20歳にかけてのこの悲運は、後のひばりの家庭的な悲劇を予見するものだった。
37年に小林旭と結婚しながら、わずか位年半で離婚。女王という栄光の座は、普通の妻としての幸せとは両立しないものだったのだ。
栄光の座は弟たちにとっても悲劇と裏腹で、弟たちは非行に走った。
そして48年、弟が暴力団との交際で事件を起こして逮捕され、弟をかばいつづけたひばりは、全国の公共施設から公演をボイコットされてしまった。
そして同年、NHK『紅白歌合戦』にも落選。
ひばりの歌手人生にとってドン底の日々がつづいた。それでもひばりは自分の意志を曲げず、耐え抜いた。
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 最終回 - さくら
2009/11/11 (Wed) 23:27:32
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「偉大だと称賛されながらも、ひばりちゃんはいつもピリピリしていた。
虚像が大きくなるばかりでそれにふさわしい人間になろうと、いつも外に向って闘いつづけていたので、ついピリピリするようになったんでしょう。
だから、その逆に家では、よく親しい人たちだけを呼んでドンチャン騒ぎをして、ストレスを解消していた。
そんなある日、ひばりちゃんが“私の人生、楽しいことなんてない。いつも針のムシロのようで・・・・・・”とポツリとつぶやいていたのが心に残っています」(元コロムビア宣伝部長・坂田哲郎さん)
苦しみに耐えていたひばりに、さらに悲運が襲いかかった。56年7月、“一卵性母娘”といわれたひばりの母・喜美枝さんが死亡。さらに58年と61年、2人の弟たちが相次いで若死に。
悲しみから、ますます酒量がふえていった。が、しかし、この相次ぐ悲しみに耐えながら、ひばりは達観したように、大らかなやさしさを見せるようになっていた。
「昭和60年春、NHKは放送開始60周年記念番組をやった。それで、私はひばりさんに出演交渉に行ったんですが、48年の『紅白』落選以来のわだかまりが、まだ完全には解けていなかったので、ひばりさんは引き受けてくれないだろうと思っていた。
ところが、ひばりさんは全くこだわりなく“いいわよ”と、簡単に引き受けてくれたんです。本当に心の広い、やさしい人だと思いました」(NHKチーフプロデューサー・吉儀彰さん)
その年ひばりは、NHKの『思い出のメロディー』の司会も引き受けたが、そのときは風邪による39度の熱を押して、不平ひとついわずにリハーサルからきちんとやり通している。昔のひばりなら、リハーサルは休んで本番だけ出演し、周りも神経をつかってピリピリするところだ。
「素晴らしく人間性豊かだったひばり先輩の生き方は、私たち日本の歌手みんなに、プロとしての大きな指針を与えてくれました」(島倉千代子)
このように、歌謡界どころか、芸能界全般にわたっても“女王”として認められてきたひばり。ところが、
「どんなに苦しくても、泣くに泣けず、だれにも頼ることができなかった」
心情をたびたび親しい人にもらしたことがあった。
そんな波乱万丈の生涯を、たくましく生き抜いたひばりの姿がこの年末に、再びよみがえる。
NHKは12月20日から3夜連続で『美空ひばり・永遠の歌声』を放送し、12月30日にはTBSがドラマ『ひばり物語』を、日本テレビが東京ドーム公演を中心にした『今もう一度美空ひばり)を放送。
そして、大晦日の『紅白歌合戦』(NHK)、『レコ大』(TBS)とひばり一色となるこの年末の盛り上がりが、空前の大スター・美空ひばりの偉大さを証明しているようだ。 ・・・・・最終回おわり
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十七回 - さくら
2009/10/27 (Tue) 22:41:29
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*第十三回〜十六回はパスします。
「色白で、目が澄んだ男、ああ、たまらなく好きよ!」 〜可憐な13歳のころにあこがれた鶴田浩二の面影を忘れることがなかった。小野満、中村錦之助と恋をし小林旭と結婚。そして離婚した後も・・・・
女王はハンサムな男性が好きだった。
「ひばりが恋した男性はみんな、色白で目が澄んだいい男ばっかりでした。それはたぶん、初恋の人・鶴田浩二の面影がずっと忘れられなかったからdrしょう」(ひばりと親しかった映画関係者)
ひばりが初恋の人・鶴田浩二と出会ったのは、昭和26年11月に公開された映画『あの丘越えて』で共演したときのことだ。
当時ひばり13歳、鶴田は26歳だった。ひばりは牧場の少女で、大学生役の鶴田に淡い恋をする役だったが、撮影を通じて、ひばりは役柄と同じように恋心を抱くようになったのだ。
「ひばりは鶴田のことを“お兄ちゃん”と呼んで、はたで見ていてもほほえましくなるほど、彼のことを慕っていました」(前出・映画関係者)
撮影が終っても淡い交際はつづいた。
28年1月、興行上のトラブルから、山口組組員が鶴田を遅い重傷を負わせるという事件が起った。
【恋をするにも自分より格が上の相手などもういなかった・・・】
「あのときひばりは“なぜあんないいお兄ちゃんを、おいちゃんの組の人がいじめたの!”と泣き叫んでいました」(レコード会社幹部)
「おいちゃん」とひばりがよぶのは山口組・田岡組長。じぶんの後援者であるその田岡組長の子分が、兄とも慕う鶴田を襲ったのだから、ひばりにとっては二重のショックだった。
そして、それ以来、ひばりは鶴田への憧れの気持ちを抱きながらも、2人の関係は疎遠になっていった。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十七回 - さくら
2009/10/30 (Fri) 00:04:01
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次は小野満さん。小野さんとの恋については、すでにこの連載で取り上げたので繰り返さないが、当時の小野さんは「ジャズ界ナンバーワンのハンサム」といわれ、やはり色白。どこか鶴田を思わせる顔立ちだった。
小野満さんとは昭和29年に出会って、33年に破局を迎えている。小野さんの次は中村錦之助(現・萬屋錦之介)だった。
ひばりと錦之介は、昭和29年2月公開の映画『ひよどり草紙』で共演。当時ひばりは16歳、錦之介は22歳だったが、錦之介は映画初出演だったので、映画ではひばりのほうが先輩だった。
「ひばりが錦之介にいろいろ教えたりして、2人はとても打ち解けて兄妹のようだった」(前出・映画関係者)
そんな「兄妹」のような仲が恋に変ったのは、昭和34年のこと。
「そのころ、錦之介はもう押しも押されもせぬ大スターになっていた。若かったひばりは、自分よりも格下の相手では燃えることができなかったんですが、錦之介がスターになったことで、一気に燃え上がったんです」(前出・映画関係者)
2人は、結婚寸前の仲だった。がだ、錦之介の母・小川ひなさんが、この結婚には猛反対。
「ひなさんには歌舞伎界の名門というプライドが強く、この結婚に反対したんです」(歌舞伎にくわしい演劇評論家)
泣く泣く錦之介と別れたひばりは、昭和36年夏に小林旭と出会い、結婚。そして39年6月離婚。
「離婚の最も大きな原因は、ひばりのほうが旭よりも大スターだったということ。旭がひばりに嫉妬して、ひばりの仕事に口を出すようになったのが原因なんです」(前出・レコード会社幹部)
ひばりはすでに“女王”になっていた。
恋をするにも、自分より格上の相手などはもういない。しかし、格下の相手と結婚すれば、小林とのようにうまくいかないことは、目に見えている。
それ以来、恋をしてもひばりはもう、結婚をあまり考えないようになっていった。
ひばりが次に恋した男性は林与一。
林とは昭和41年のひばり公演で共演し、
「ラブシーンが真に迫っている」
と評判になり、その後も共演をつづけたが、44年に別離。
その後相手役に起用されたのは船戸順。船戸は結婚していたのだが、ひばりとプライベートにも燃え上がってひばり御殿に入りびたりになり、後に妻とも離婚。しかし、この恋は長くはつづかず、1年半ほどで破局。
次にひばりが熱をあげたのは里見浩太朗。2人はずっと以前から親しい仲だったが、昭和50年7月に、里見がひばり御殿を訪ねたことから、恋が芽生えた。
里見がひばり御殿を訪ねたのは、自分が主演していた『大江戸捜査網』(テレビ東京)の200回記念に、ひばりにゲスト出演してもらうよう依頼するためだった。
ひばりは二つ返事でOKしその年の8月に里見が離婚したこともあって、2人の中は急接近。その後、密接な関係が2年ほどつづいた。
「はかにも、俳優の大村文武やテレビ局ディレクター、コロムビアのディレクターなど、ひばりは次々と恋をしていったんですが、相手はみんなひばり好みのハンサムでしたね」(舞台関係者)
結婚に失敗し、家庭的には恵まれなかったひばりだったが、いつもときめくような恋心を絶やすことはなかった。
女王は、恋多き多感な女性でもあったのだ。 ・・・・・第十七回おわり
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十七回 - 夾竹桃
2009/11/11 (Wed) 20:23:52
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書かれている内容の週刊誌の記事を読んだ記憶が、かすかに残ってますが、ひばりさんは恋多き女性
だったんですね。
私の読んだ本に石浜朗に初恋というのが、あって記憶に残っているのですが。
伊豆の踊り子をDVDで見るたび思い出します。
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第二十一回 - さくら
2009/11/09 (Mon) 00:51:22
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第19回と20回はパスします。
「人生を透視したその一言」
一芸に秀でた人は、何げない言葉の中にも鋭い洞察力を秘めているものだが、ひばりの言葉も、やはりそうだった。
「私って、昔からだれみたいになりたいという目標がなかったの。今日の自分に明日は負けまいということ、つまり、自分自身が目標なわけね」
この言葉は昭和38年10月、ひばりがまだ26歳のときのもの。当時の人気歌手・橋幸夫との対談で、歌手としてのモットーを語ったものだ。
後年、ひばりは、
「今日の我に明日は勝つ」
という言葉をよく口にしたが20代半ばのひばりが、すでにそれだけの自覚を持っていたという事実は、驚嘆に値する。
強烈な自信と同時に自分自身を見つめる厳しい目がなければ、とてもこんな言葉は出てこない。
まるで人生を透視したような厳しい言葉。20代半ばで、ひばりはすでにそんな言葉が口に出るほどの境地にいたのである。
それだけに、ひばりの言葉に周囲のものは圧倒されがちだった。
「とにかく、彼女の一言一言にはたいへんな迫力があって、周りのものはみんなピリピリして圧倒された。まるで総理大臣の言葉のように威力があったんです。
でも、圧倒されるだけじゃない。よく考えてみると、彼女の言葉にはいつも深い真理が含まれていたため、やがて納得し、その言葉を自分たちの生きる指針にするようになっていきました」
そう話すのは、ひばりのデビュー以来30年にわたって、一緒に仕事をしてきた元コロムビアレコード宣伝部長の坂田哲郎さん(現・クラウンレコード顧問)だ。
橋幸夫も、その対談以降、ひばりを師と仰ぎ、ひばりの死まで終生親交を深めていった。
「デビューしたときの気持ちと歌い方、これは絶対に変えちゃダメね」
39年、デビュー曲『高校3年生』が大ヒットした舟木一夫へのアドバイス。
ひばり自身、12歳のときのヒット曲『悲しき口笛』や、14歳のときの『リンゴ追分』などを、大人になっても歌いつづけた。
自分はいつも最善を尽くしてる・・・・そんな自信があればイメージチェンジなど必要がない。
それがひばりの生き方だった。
「思わず緊張して、手も足もふるえてしまいました。
近頃は舞台であがることもなくなっていたのに・・・・・・」
44年、全国赤十字大会で皇后さま(現・皇太后さま)から直接金色有功章を授けられたとき。
自信家のひばりも、さすがにこのときばかりはふるえが止まらなかったようだ。
「早くこれを直してください。それまでは歌いません」
42年、公演中にマイクの調子が悪く、途中で歌をピタリとやめて。
「好きでもない歌手にお世辞をいわなければならないなんて、とてもつらい気持です」
45年『紅白』の司会を引き受けたものの、親しいディレクターに手紙で。
どちらも、プロとしてのひばりの、妥協を許さない厳しい姿勢をよく表している。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第二十一回 - さくら
2009/11/10 (Tue) 00:02:17
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【ひばりの言葉には庶民の側に立つものとして権威と闘う姿勢が】
「哲也は、永久に私の弟に間違いどざいません」
48年、初のアメリカ公演から帰ったひばりを待っていたのは『かとう哲也、ピストル不法所持で逮捕』のニュースだった。
しかし、ひばりはたじろぐことなく、キッパリとこういい切った。
どんなに世間から批判されても、ひばりの家庭への愛は変わらず、終始一貫、弟をかばいつづけた。
そのぜひはともかく、テコでも動かない、ひばりのガンコさを示す言葉だ。
「砂を入れてにごったコップの水は、時間がたてば澄むけど、絶対にもとのきれいな水にはもどらない」
哲也の事件がきっかけで、NHK『紅白歌合戦』を降ろされたひばり。
その後、世間の批判が収まると、NHKは必死になってひばりとの関係を修復しようとした。しかし、ひばりは頑としてその修復工作をハネつけた。その気持ちを、51年にこんな言葉で説明したもの。
しかし、ひばりのそんな厳しさは、“女王”として驕り高ぶった気持ちから出ていたのではない。むしろその逆で、あくまでも庶民の側に立つものとして、権威と闘う姿勢のあらわれだったのだ。
58年に、芸能生活37年を迎えたときの、
「心の中は、私はいつでも魚屋の娘ですよ」という言葉に、そんなひばりの気持ちがよく出ている。
《他人には迷惑をかけないように、人を思いやる心を持ってほしい、ものを大切に》
死の直前の今年5月、ひとり息子の和也さんに書き遺した、ひばりの処世訓。和也さんへの、遺言ともなった。
おそらくこの言葉は、ひばりが自分自身にもいい聞かせてきた言葉だったのだろう。
平凡な言葉でありながら、ズシリと重みのある、ひばり最後の語録である。 ・・・・・第二十一回 おわり
近大映画「水戸黄門 天下の副将軍 特集号」より - さくら
2009/11/04 (Wed) 10:55:49
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『スタア研究』 〜あなたのスタアのより輝かしい明日のために、敢えて企画した『スタア研究』のページです”!あなたのスタアの長所と短所をするどくとらえて、明日への前進の糧をささげるファン必読の診断書です!京都在住の三人の映画評論家にお願いして、ズバリと批評して頂いたスタア人物論集!
≪美空ひばり≫☆★☆彼女の冷たい美貌のなかに庶民の匂いがひそんでいる・・・と説く評者の眼に映ったひばりちゃんの明日への道しるべは?
何という題名だったか、たしか『悲しき口笛』という題名だったと思う。松竹大船で家城巳代治監督がとった映画に、こまっちゃくれた小娘が達者に歌をうたっていた。これが美空ひばりのごく初期の、或いは処女作にちかいものだった。そのころ買い物ブギか何かで売っていた笠置シズ子の真似のうまい少女歌手がいるということで、歌の方には余り興味のない私は、この『悲しき口笛』でこまっちゃくれた少女歌手が、その笠置イミテーションの美空ひばりだと知ったわけである。もう十年になるだろうと思う。
その少女がジャーナリズムをいろいろとにぎわし、米国へ渡ったりということだった。
その米国へ渡って帰ってきて間もないときである。大阪へ行く国電の急行で令の如く三十六分をウツラウツラ寝てすごそうと思っていると、急にうしろの方の席がガヤガヤとやかましい。ふりかえると修学旅行らしい一団の高校生が私の近くの席の方へ押しよせてくる。全く押しよせてきたのである。すると、少し後ろの席で女の声で「サインはやりますから、皆さん本人は疲れていますから」とかいうのが聞こえる。サインというからには、スタアさまであろうとふりかえると、私のすぐななめうしろの席に美空ひばりが坐っていた。ああ、さよかと思ったが、その顔の泰然自若たるのになるほどと思った。これは訓練のゆきとどいた顔である。あえて美空ひばりに限ったわけではない。近畿商売とか有名人とかいわれる人たちには、しかるべき場所で余人の真似られない、一種の泰然自若たる顔つきになるものである。
こういうことは、だから映画界では少しも珍しくはない。これも大分前になるが、山田五十鈴さんが大友柳太郎と『加賀騒動』をとった直後、奈良の座談会へベルさんが行くのにお伴をした。独立プロ華やかなりし頃だったが、京都から走らす自動車の中でベルさんはお伴の少女と歌集か何かをひろげて盛んに歌いだす。「カチューシャ」か何かを冬空の木津川の堤防に流したわけである。さて目指す奈良へ降りたって、さる興行主の家へ入るときのベルさんの横顔にはもう鼻歌の面影もなかった。堂々たる大女優のキ然たるすがただけが近より難いまでにきびしくひきしまっていた。この横顔は美空ひばりとは全く質の違うものであったが、そこには衆人環視の中で自分を保持する共通したものがあるわけだ。 ・・・・・つづく
Re: 近大映画「水戸黄門 天下の副将軍 特集号」より - さくら
2009/11/05 (Thu) 13:59:04
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泰然自若たる美空ひばり。それがまだ小学校を出たか出ないころからつくられていった美空ひばりというところに、いまの彼女のかなり大きな部分がある。
元来美空ひばりのようにほんとの少女時代から今日までの十数年を一貫して人気をもってきたということは並々なことではない。彼女はいろんな意味で余りジャーナリズムにうけがよくないし、硫酸事件のような新聞種の不祥事もあったり、何となく明るい雰囲気に不足したものがありながら、今日まで変わらぬ地位を占めてきたことはたしかに大したことである。
最近も音楽家の集まっている席で歌謡曲の話がでて、島倉千代子や三波春夫のことから、ひばりの歌は一寸難しくなってるんだぜ、島倉の「からたち日記」のように真似がすぐ出来ないんだよといわれて、その方にうとい私はなるほどと思った。
笠置イミテーションのころから、ちょっと難しいところまで美空はやはり努力しているのである。その内容は変わっても、彼女が歌では終始人気を保っているのは大した努力である。
しかし、事が映画の世界になると、さてどういうことになるのかと考えさせられる。美空ひばりの映画俳優論といったものは余りお目にかからない。
そもそもの『悲しき口笛』のころはともかく、私は彼女の映画の中では五所平之助監督の『たけくらべ』の美登里などは、やはり美空ひばり映画リストの太字に属するものだと思っている。驕まんで、といって貴族的ではなく町人育ちである美登里。
何しろ彼女の映画歴は日活あたりを除けば各社にわたっているから、どれだけの本数になるか知らないが、『たけくらべ』のような本格抒情劇と同時に、東宝で一時ドル箱のような存在だったひばり・チエミ・いづみというトリオの三人娘もの。それも一番始めのお茶屋か何かの娘で邦舞を踊る奴、これなどよかった。総じて彼女のものでは和服がよろしい。
彼女にはもう一つ中性的な男装ものがかなり成功している。最近東映の大川橋蔵と組んだ『花笠若衆』などもその例だし、こんど千恵蔵と顔合わせをする『江戸っ子判官とふり袖小僧』などもこの流である。東映での美空ものには、この“ふり袖”という題名が付けられているが、これらに共通したものは男装にしろ、娘役にしろ一種の中性的なものがあるわけだ。
かつて文字通りの少女時代に彼女からみせられた泰然自若は実はこの中性的キャラクターに通じているようだ。
この“泰然自若”が環境の産物といったが、同時に彼女の風ぼうから来る天性のものである。この統一がいまもなお泰然自若となり女らしい・・・というのはいろいろあろうが・・・柔かさの乏しい冷たさにもなっている。
いまも私の手許には『江戸っ子判官とふり袖小僧』のキャビネが一枚ある。それは前髪が伸びて額にまで下ったやくざぽい風体である。彼女特有の一寸シニカルな微笑をたたえ、長火鉢に腰を下している。もとろん男装なのである。これがなかなか似合っている。おそらく、本誌にこの稿が出るころは或いは『・・・・ふり袖小僧』が公開されているかも知れないが沢島作品だから、まずソツはなかろう。
が、それよりこの男装のふり袖小僧を、ひばり男装論として皆さんが見直してほしい。 ・・・・・つづく
Re: 近大映画「水戸黄門 天下の副将軍 特集号」より - さくら
2009/11/07 (Sat) 22:23:08
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千代之介や里見浩太郎とくんだミュージカル。『かんざし小判』や『お染久松・そよ風日傘』などは、もちろん彼女の歌手で俳優という特徴を生かしたのだから、今さらいうまでもないが、これは時代劇ミュージカルということで、いささか難しい。監督に人をえないとつまらなくなる。
それよりも彼女の演技の道としてはやはり“泰然自若”型である。このひばりの型に私はひそかに期待しているものがある。それはこの泰然自若が世にいう如き驕まんとだけではすまないものをもっていると思うからである。彼女の成りたちは成り上がり的な・・・・というとイヤな表現になるが・・・・ものへの一種の蔑視がジャーナリズムにひそんでいるということである。それには彼女の表向きの“泰然自若”と同時に、今日の地位になるまで昇ってきた昇り方への蔑視に対する抵抗を秘めていると思うからである。彼女にはその自覚があるかどうかは知らない。しかし彼女の冷たさは名門に育った錦之助などが考え及ばぬ必死の抵抗が生んだものである。そう断定しないまでも生んだものであろうといい直してもよい。彼女は結局のところ庶民である。“泰然自若”たる殿様や貴族ではない。『たけくらべ』の美登里が、我まま一ぱいに育てられながら、行末は吉原の太夫たる庶民の悲しみを蔵している如く、彼女の冷たさにはどこまでも庶民のにおいがする。そこには彼女が今日もなお大衆的な人気を失わない要素があるといってよい。『たけくらべ』の美登里の成功は、その意味で美空ひばりの生地である。
美空ひばりは努力家である。彼女が努力を忘れたときは、彼女は苦境に陥るかも知れない。そういう彼女は年齢的にも技術的にも、一つのきびしい曲り角に立っているといえよう。 (北川鉄夫) ・・・・・おわり
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十八回 - さくら
2009/11/01 (Sun) 23:49:07
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「ぜひ参院選に出馬してください!」 〜絶大なひばりファンで陰ながらの支援者だった大正製薬会長の故・上原正吉さんの強い懇請に、1度は心を動かしてはみたものの・・・・・・
ひばりが国会議員になっていたかもしれない・・・そんな秘話があった。
ひばりに「ぜひ国会に・・・・・・」とすすめたのは、大正製薬の会長だった故・上原正吉さん。
上原さんは薬屋の小僧からのし上がって、戦後間もない昭和21年に大正製薬の社長に就任。
その後、ラジオやテレビをフルに活用した大量広告作戦で大衆薬時代を切り開き社業を発展させ、昭和40年には長者番付日本一の座についた。以来、日本一は通算6回で、松下幸之助さんと並ぶ日本最高のリッチマンだった。
また、政界にも進出し、昭和25年から参院議員(埼玉地方区)に5期連続当選。40年には科学技術庁長官になり、50年に勲一等旭日大綬章を受章した。
上原さんはまた、政財界に華麗な閨閥を築き上げたことでも知られている。
そして55年に政界を引退し、58年3月、85歳で亡くなった。
亡くなったときの遺産は持ち株だけで635億円。ほかに不動産なども含めて、遺産総額は史上空前といわれた。
そんな超大物の上原さんと美空ひばりの最初の接点は、昭和46〜47年ころのことだった。
上原さんは、以前からひばりのファンだった。
それを人づてに聞いたひばりが、毎年“ひばり御殿”で開いている自分の誕生パーティーへの招待状を、上原さんに送ったのだ。
「ひばりは、まさか本当に上原さんが来てくれるなんて、思ってもいなかった。
ところが、当日になって上原さんが秘書も連れずに1人でひょっこり現われたんです」(レコード会社幹部)
パーティーはカラオケ大会になった。上原さんも歌うという。曲は、ひばり12歳のときに吹き込んだ、初めてのヒット曲『悲しき口笛』。
まわりの人があわてて歌詞カードをさし出したのだが、上原さんはそれを手で制し、カードも見ないまま詞を間違わずに歌いきった。
「ひばりはびっくりしていました。そして、大喜びで“先生アンコール”というと、上原さんは今度は『柔』を歌い出した。
やっぱり歌詞カードはなし。上原さんはひばりの歌を何10曲も覚えているということでした」(前出・レコード会社幹部)
そんなことがあって、上原さんとひばりはすっかり打ち解けた。
それ以来、上原さんは毎年のひばりの誕生パーティーの常連となりそれ以外にもひばりのお祝い事やパーティーがあると、何をおいても必ず駆けつけた。
ひばりは、上原さんを深く尊敬していた。
それも政財界の大物としてではなく、人間的に尊敬し、父親のように慕ってもいた。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十八回 - さくら
2009/11/03 (Tue) 01:49:13
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【あんたの人間性が素晴らしい。それを政界にも生かしてみたい】
「上原さんのほうも、ひばりと会うときはとてもうれしそうで、いつも秘書を連れず、くつろいだ一私人として会っていました。2人の間には歌手と政界人という関係を越えて、人間同士の父娘のような交流があったんです」(ひばりと親しかった舞台関係者)
上原さんは、ひばりの母・喜美枝さんの手づくりの塩辛が大好物で、ひばり邸を訪ねたときには、いつもそれを所望していたという。
昭和50年に、上原さんの参院議員25年永年勤続と結婚50周年の金婚式を祝う会が、東京・新宿の京王プラザホテルで、政財界の大物たちを集めて開かれたが、このときにもひばりが特別ゲストとして招かれて、歌を披露している。
そんな深い交流のあった上原さんが、昭和50年代の半ばころに、ひばりに政界入りをすすめたのだ。
「上原さんがこういったんです。“ひばりちゃん、あんたとずっと付き合ってきてあんたの人間性がとても素晴らしいことがよくわかった。
どうだ、参議院選に出てみないか。あんたのその人間性を政界にも生かしてみたいんだ。出る気があるなら、私が応援するよ”と。
ひばりが“先生、私は歌一筋でやってきたんですから、今さら歌はやめられません”と答えると、上原さんは“いや、歌をやめる必要はない。歌いながら、その歌の心を政界に反映させればいいんだ”と、さらに強くすすめたんです」(前出・レコード会社幹部)
ひばりは、父とも慕う上原さんの、その強いすすめに、1度は心を動かされたようだったという。
しかし、しばらく考えていたひばりは、
「先生、やっぱりお断わりします。私は庶民の心を歌ってきたのに、国会議員になっちゃうと、そういう歌が歌えなくなるような気がするんです」
と、上原さんの申し出を断ったのである。
もしあのとき、ひばりが上原さんの申し出を受け入れていたら、ひばりの全国的な根強い人気と上原さんのバックアップを考えれば、ひばりが参院選に当選した可能性は非常に高かったはずだ。
ひばりと国会議員というのは、どうしてもイメージがピッタリと結びつかないが、上原さんほどの大物がすすめたほどだから、ひばりには意外と政治家としての隠れた資質があったのかもしれない。 ・・・・・第十八回おわり
『情熱のリオ』 - さくら
2009/10/31 (Sat) 00:10:30
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『情熱のリオ』 〜ベテラン・サカオの半世紀とっておきのブラジルおもしろ裏話〜 坂尾英矩著 中央アート出版社 2008.12.10発行
【1968年 美空ひばり「幻のブラジル公演」秘話】
2006年3月28日、テレビ朝日が美空ひばり60周年番組を放映した。
この番組の制作班がブラジルへ取材に行くと決った時、多くの人が「何故ブラジルへ?」と不思議に思った。何故ならば、今までひばりのブラジル公演はあまり知られていなかったし、映像も無かったからである。
しかし現地の日系社会においては、移住100年史の中で皇族の訪問以上に大きな印象を残した出来事なのだ。こんな大イベントの貴重な記録フィルムがサンパウロ奥原プロダクションの倉庫に眠っていることを知ったテレビ朝日が飛びついたわけである。
当時、私は公演のA&Rマネジャーを務めたので、取材班からインタビューの申し込みを受けた。「憶えておられる事は何でもしゃべってください」と言われたが、記念番組として適当ではない、と思って話さなかったオフレコ・エピソードがある。
話は公演の二年前、1968年にさかのぼる。日本の著名なジャズマン渡辺貞夫、通称ナベサダさんが初めてブラジルへ渡った時、ニューヨークから直行便に乗るとギターを抱えた日本人と一緒になった。「あなたもブラジル行きですか、いい所らしいですね」と挨拶を交わしただけでサンパウロ空港に降りた。
ギターの男は日系人の出迎えでいっぱい。「先生、遠いところをご苦労様でした。ところで、あちらの楽器を持った方はどなたですか?と聞かれて「渡辺とかいう人でジャズマンらしいですよ」と関係ない感じ。
一方、ナベサダを迎えたのは呼び寄せ人、小野敏郎氏(小野リサの父親)一人だけ。歓迎でもみくちゃになっている件の男を見てナベさんが「あの人は何者ですか?」と尋ねると小野さんは驚いて「あれ、一緒じゃなかったの?彼は田端義夫じゃないですか」するとナベさん真面目な顔をして「田端義夫って何やる人ですか?」
ジャズ・スターのナベサダさん対、流し演歌スター、バタやん。人間的にも信頼度高く、それぞれの分野で名高い音楽家同士だが、この話を「信じられるかい?」と語ってくれたのはブラジル音楽の草分け評論家、故大島守氏である。
その頃、若い二世三世たちは、ほとんどが演歌ファンだったので田端義夫は人気が高かった。打ち上げの二次会で、招へい元のプブリブラス放送株式会社、奥原康栄社長は「次はいよいよ美空ひばりを呼ぼうと計画している。僕の一生の夢だから成功したら死んでもよい」と上機嫌だった。するとバタやんが急にシュンとして「奥原さん、あんたが儲けるためにソロバンづくだけで興行を打つのならよいが、ひばりの招へいを夢と思っているなら止めなさい」と真剣な顔付になった。「何で?」といぶかる社長に彼は「昔から芸能人に惚れてショーを行う興行師は催しが成功した後に必ず不幸が起きる、というジンクスがある。美空ひばりは普通のタレントと違って天才だから、惚れると芸の鬼に食われるよ」と忠告したが、酔っていた社長は「そんなバカな」と笑い飛ばしてしまった。 ・・・・・つづく
Re: 『情熱のリオ』 - さくら
2009/10/31 (Sat) 22:21:09
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1970年8月、待ちに待った美空ひばりブラジル公演が実現の運びとなった。私は奥原社長に呼ばれて「ブラジルの恥とならないようにオーケストラは超一流のミュージシャンを集めてくれ」と頼まれた。日本から指揮者佐伯亮、リード・トランペット白礒哮、ドラム中西義郎それから三味線のお師匠さん、の四氏が同行、ブラジル側は私がスタジオ・ミュージシャンのトップ・クラスばかり15人をピックアップした。
会場はサンパウロ州立イビラプエラ体育館で、一日2回ステージが3日間、観衆は二万人を突破した。遠くはアマゾンの奥地をはじめ、ペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン各国からも日系人が集まったのだから、さすがにひばりの偉大さ、と言うより他はない。
ショーが終ってからひばりさんが私に「オーケストラすごく良かった。お世辞じゃなくてアメリカよりうまいわよ」と言って握手してくれたのが忘れられない。
ミュージシャンたちはフランク・シナトラやと二―・ベネットのブラジル公演に伴奏するメンバーだから国際的なセンスが有り、日本音楽のフィーリングを実に良く表現してくれた。また、耳の肥えた演奏家全員が「言葉は分からないけど彼女の才能はすごい」と感心していたのも美空ひばりの実力を示す証しであろう。
初日の大盛況に幸福の絶頂だった奥原社長は、夜の部がはねてから酒の度が過ぎて、帰宅の途中に自分が運転する車をトラックにぶっつけて命を失ったのである。あまりにも突然な事故に関係者は声も出なかった。
社長は長年の大きな夢を果たした幸福な瞬間に他界してしまったのである。
翌年、訪日した私は新宿でバタやんとバッタリ出会った。彼はコーヒーを飲みながらサンパウロで奥原氏と私と一緒に飲んだ夜を思い出して「君、おぼえているだろう?僕があれだけ忠告したのを」と言ってからお互いにしばらく言葉が出なかった。 ・・・・・おわり