
近大映画「水戸黄門 天下の副将軍 特集号」より - さくら
2009/11/04 (Wed) 10:55:49
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『スタア研究』 〜あなたのスタアのより輝かしい明日のために、敢えて企画した『スタア研究』のページです”!あなたのスタアの長所と短所をするどくとらえて、明日への前進の糧をささげるファン必読の診断書です!京都在住の三人の映画評論家にお願いして、ズバリと批評して頂いたスタア人物論集!
≪美空ひばり≫☆★☆彼女の冷たい美貌のなかに庶民の匂いがひそんでいる・・・と説く評者の眼に映ったひばりちゃんの明日への道しるべは?
何という題名だったか、たしか『悲しき口笛』という題名だったと思う。松竹大船で家城巳代治監督がとった映画に、こまっちゃくれた小娘が達者に歌をうたっていた。これが美空ひばりのごく初期の、或いは処女作にちかいものだった。そのころ買い物ブギか何かで売っていた笠置シズ子の真似のうまい少女歌手がいるということで、歌の方には余り興味のない私は、この『悲しき口笛』でこまっちゃくれた少女歌手が、その笠置イミテーションの美空ひばりだと知ったわけである。もう十年になるだろうと思う。
その少女がジャーナリズムをいろいろとにぎわし、米国へ渡ったりということだった。
その米国へ渡って帰ってきて間もないときである。大阪へ行く国電の急行で令の如く三十六分をウツラウツラ寝てすごそうと思っていると、急にうしろの方の席がガヤガヤとやかましい。ふりかえると修学旅行らしい一団の高校生が私の近くの席の方へ押しよせてくる。全く押しよせてきたのである。すると、少し後ろの席で女の声で「サインはやりますから、皆さん本人は疲れていますから」とかいうのが聞こえる。サインというからには、スタアさまであろうとふりかえると、私のすぐななめうしろの席に美空ひばりが坐っていた。ああ、さよかと思ったが、その顔の泰然自若たるのになるほどと思った。これは訓練のゆきとどいた顔である。あえて美空ひばりに限ったわけではない。近畿商売とか有名人とかいわれる人たちには、しかるべき場所で余人の真似られない、一種の泰然自若たる顔つきになるものである。
こういうことは、だから映画界では少しも珍しくはない。これも大分前になるが、山田五十鈴さんが大友柳太郎と『加賀騒動』をとった直後、奈良の座談会へベルさんが行くのにお伴をした。独立プロ華やかなりし頃だったが、京都から走らす自動車の中でベルさんはお伴の少女と歌集か何かをひろげて盛んに歌いだす。「カチューシャ」か何かを冬空の木津川の堤防に流したわけである。さて目指す奈良へ降りたって、さる興行主の家へ入るときのベルさんの横顔にはもう鼻歌の面影もなかった。堂々たる大女優のキ然たるすがただけが近より難いまでにきびしくひきしまっていた。この横顔は美空ひばりとは全く質の違うものであったが、そこには衆人環視の中で自分を保持する共通したものがあるわけだ。 ・・・・・つづく
Re: 近大映画「水戸黄門 天下の副将軍 特集号」より - さくら
2009/11/05 (Thu) 13:59:04
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泰然自若たる美空ひばり。それがまだ小学校を出たか出ないころからつくられていった美空ひばりというところに、いまの彼女のかなり大きな部分がある。
元来美空ひばりのようにほんとの少女時代から今日までの十数年を一貫して人気をもってきたということは並々なことではない。彼女はいろんな意味で余りジャーナリズムにうけがよくないし、硫酸事件のような新聞種の不祥事もあったり、何となく明るい雰囲気に不足したものがありながら、今日まで変わらぬ地位を占めてきたことはたしかに大したことである。
最近も音楽家の集まっている席で歌謡曲の話がでて、島倉千代子や三波春夫のことから、ひばりの歌は一寸難しくなってるんだぜ、島倉の「からたち日記」のように真似がすぐ出来ないんだよといわれて、その方にうとい私はなるほどと思った。
笠置イミテーションのころから、ちょっと難しいところまで美空はやはり努力しているのである。その内容は変わっても、彼女が歌では終始人気を保っているのは大した努力である。
しかし、事が映画の世界になると、さてどういうことになるのかと考えさせられる。美空ひばりの映画俳優論といったものは余りお目にかからない。
そもそもの『悲しき口笛』のころはともかく、私は彼女の映画の中では五所平之助監督の『たけくらべ』の美登里などは、やはり美空ひばり映画リストの太字に属するものだと思っている。驕まんで、といって貴族的ではなく町人育ちである美登里。
何しろ彼女の映画歴は日活あたりを除けば各社にわたっているから、どれだけの本数になるか知らないが、『たけくらべ』のような本格抒情劇と同時に、東宝で一時ドル箱のような存在だったひばり・チエミ・いづみというトリオの三人娘もの。それも一番始めのお茶屋か何かの娘で邦舞を踊る奴、これなどよかった。総じて彼女のものでは和服がよろしい。
彼女にはもう一つ中性的な男装ものがかなり成功している。最近東映の大川橋蔵と組んだ『花笠若衆』などもその例だし、こんど千恵蔵と顔合わせをする『江戸っ子判官とふり袖小僧』などもこの流である。東映での美空ものには、この“ふり袖”という題名が付けられているが、これらに共通したものは男装にしろ、娘役にしろ一種の中性的なものがあるわけだ。
かつて文字通りの少女時代に彼女からみせられた泰然自若は実はこの中性的キャラクターに通じているようだ。
この“泰然自若”が環境の産物といったが、同時に彼女の風ぼうから来る天性のものである。この統一がいまもなお泰然自若となり女らしい・・・というのはいろいろあろうが・・・柔かさの乏しい冷たさにもなっている。
いまも私の手許には『江戸っ子判官とふり袖小僧』のキャビネが一枚ある。それは前髪が伸びて額にまで下ったやくざぽい風体である。彼女特有の一寸シニカルな微笑をたたえ、長火鉢に腰を下している。もとろん男装なのである。これがなかなか似合っている。おそらく、本誌にこの稿が出るころは或いは『・・・・ふり袖小僧』が公開されているかも知れないが沢島作品だから、まずソツはなかろう。
が、それよりこの男装のふり袖小僧を、ひばり男装論として皆さんが見直してほしい。 ・・・・・つづく
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十八回 - さくら
2009/11/01 (Sun) 23:49:07
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「ぜひ参院選に出馬してください!」 〜絶大なひばりファンで陰ながらの支援者だった大正製薬会長の故・上原正吉さんの強い懇請に、1度は心を動かしてはみたものの・・・・・・
ひばりが国会議員になっていたかもしれない・・・そんな秘話があった。
ひばりに「ぜひ国会に・・・・・・」とすすめたのは、大正製薬の会長だった故・上原正吉さん。
上原さんは薬屋の小僧からのし上がって、戦後間もない昭和21年に大正製薬の社長に就任。
その後、ラジオやテレビをフルに活用した大量広告作戦で大衆薬時代を切り開き社業を発展させ、昭和40年には長者番付日本一の座についた。以来、日本一は通算6回で、松下幸之助さんと並ぶ日本最高のリッチマンだった。
また、政界にも進出し、昭和25年から参院議員(埼玉地方区)に5期連続当選。40年には科学技術庁長官になり、50年に勲一等旭日大綬章を受章した。
上原さんはまた、政財界に華麗な閨閥を築き上げたことでも知られている。
そして55年に政界を引退し、58年3月、85歳で亡くなった。
亡くなったときの遺産は持ち株だけで635億円。ほかに不動産なども含めて、遺産総額は史上空前といわれた。
そんな超大物の上原さんと美空ひばりの最初の接点は、昭和46〜47年ころのことだった。
上原さんは、以前からひばりのファンだった。
それを人づてに聞いたひばりが、毎年“ひばり御殿”で開いている自分の誕生パーティーへの招待状を、上原さんに送ったのだ。
「ひばりは、まさか本当に上原さんが来てくれるなんて、思ってもいなかった。
ところが、当日になって上原さんが秘書も連れずに1人でひょっこり現われたんです」(レコード会社幹部)
パーティーはカラオケ大会になった。上原さんも歌うという。曲は、ひばり12歳のときに吹き込んだ、初めてのヒット曲『悲しき口笛』。
まわりの人があわてて歌詞カードをさし出したのだが、上原さんはそれを手で制し、カードも見ないまま詞を間違わずに歌いきった。
「ひばりはびっくりしていました。そして、大喜びで“先生アンコール”というと、上原さんは今度は『柔』を歌い出した。
やっぱり歌詞カードはなし。上原さんはひばりの歌を何10曲も覚えているということでした」(前出・レコード会社幹部)
そんなことがあって、上原さんとひばりはすっかり打ち解けた。
それ以来、上原さんは毎年のひばりの誕生パーティーの常連となりそれ以外にもひばりのお祝い事やパーティーがあると、何をおいても必ず駆けつけた。
ひばりは、上原さんを深く尊敬していた。
それも政財界の大物としてではなく、人間的に尊敬し、父親のように慕ってもいた。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十八回 - さくら
2009/11/03 (Tue) 01:49:13
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【あんたの人間性が素晴らしい。それを政界にも生かしてみたい】
「上原さんのほうも、ひばりと会うときはとてもうれしそうで、いつも秘書を連れず、くつろいだ一私人として会っていました。2人の間には歌手と政界人という関係を越えて、人間同士の父娘のような交流があったんです」(ひばりと親しかった舞台関係者)
上原さんは、ひばりの母・喜美枝さんの手づくりの塩辛が大好物で、ひばり邸を訪ねたときには、いつもそれを所望していたという。
昭和50年に、上原さんの参院議員25年永年勤続と結婚50周年の金婚式を祝う会が、東京・新宿の京王プラザホテルで、政財界の大物たちを集めて開かれたが、このときにもひばりが特別ゲストとして招かれて、歌を披露している。
そんな深い交流のあった上原さんが、昭和50年代の半ばころに、ひばりに政界入りをすすめたのだ。
「上原さんがこういったんです。“ひばりちゃん、あんたとずっと付き合ってきてあんたの人間性がとても素晴らしいことがよくわかった。
どうだ、参議院選に出てみないか。あんたのその人間性を政界にも生かしてみたいんだ。出る気があるなら、私が応援するよ”と。
ひばりが“先生、私は歌一筋でやってきたんですから、今さら歌はやめられません”と答えると、上原さんは“いや、歌をやめる必要はない。歌いながら、その歌の心を政界に反映させればいいんだ”と、さらに強くすすめたんです」(前出・レコード会社幹部)
ひばりは、父とも慕う上原さんの、その強いすすめに、1度は心を動かされたようだったという。
しかし、しばらく考えていたひばりは、
「先生、やっぱりお断わりします。私は庶民の心を歌ってきたのに、国会議員になっちゃうと、そういう歌が歌えなくなるような気がするんです」
と、上原さんの申し出を断ったのである。
もしあのとき、ひばりが上原さんの申し出を受け入れていたら、ひばりの全国的な根強い人気と上原さんのバックアップを考えれば、ひばりが参院選に当選した可能性は非常に高かったはずだ。
ひばりと国会議員というのは、どうしてもイメージがピッタリと結びつかないが、上原さんほどの大物がすすめたほどだから、ひばりには意外と政治家としての隠れた資質があったのかもしれない。 ・・・・・第十八回おわり
『情熱のリオ』 - さくら
2009/10/31 (Sat) 00:10:30
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『情熱のリオ』 〜ベテラン・サカオの半世紀とっておきのブラジルおもしろ裏話〜 坂尾英矩著 中央アート出版社 2008.12.10発行
【1968年 美空ひばり「幻のブラジル公演」秘話】
2006年3月28日、テレビ朝日が美空ひばり60周年番組を放映した。
この番組の制作班がブラジルへ取材に行くと決った時、多くの人が「何故ブラジルへ?」と不思議に思った。何故ならば、今までひばりのブラジル公演はあまり知られていなかったし、映像も無かったからである。
しかし現地の日系社会においては、移住100年史の中で皇族の訪問以上に大きな印象を残した出来事なのだ。こんな大イベントの貴重な記録フィルムがサンパウロ奥原プロダクションの倉庫に眠っていることを知ったテレビ朝日が飛びついたわけである。
当時、私は公演のA&Rマネジャーを務めたので、取材班からインタビューの申し込みを受けた。「憶えておられる事は何でもしゃべってください」と言われたが、記念番組として適当ではない、と思って話さなかったオフレコ・エピソードがある。
話は公演の二年前、1968年にさかのぼる。日本の著名なジャズマン渡辺貞夫、通称ナベサダさんが初めてブラジルへ渡った時、ニューヨークから直行便に乗るとギターを抱えた日本人と一緒になった。「あなたもブラジル行きですか、いい所らしいですね」と挨拶を交わしただけでサンパウロ空港に降りた。
ギターの男は日系人の出迎えでいっぱい。「先生、遠いところをご苦労様でした。ところで、あちらの楽器を持った方はどなたですか?と聞かれて「渡辺とかいう人でジャズマンらしいですよ」と関係ない感じ。
一方、ナベサダを迎えたのは呼び寄せ人、小野敏郎氏(小野リサの父親)一人だけ。歓迎でもみくちゃになっている件の男を見てナベさんが「あの人は何者ですか?」と尋ねると小野さんは驚いて「あれ、一緒じゃなかったの?彼は田端義夫じゃないですか」するとナベさん真面目な顔をして「田端義夫って何やる人ですか?」
ジャズ・スターのナベサダさん対、流し演歌スター、バタやん。人間的にも信頼度高く、それぞれの分野で名高い音楽家同士だが、この話を「信じられるかい?」と語ってくれたのはブラジル音楽の草分け評論家、故大島守氏である。
その頃、若い二世三世たちは、ほとんどが演歌ファンだったので田端義夫は人気が高かった。打ち上げの二次会で、招へい元のプブリブラス放送株式会社、奥原康栄社長は「次はいよいよ美空ひばりを呼ぼうと計画している。僕の一生の夢だから成功したら死んでもよい」と上機嫌だった。するとバタやんが急にシュンとして「奥原さん、あんたが儲けるためにソロバンづくだけで興行を打つのならよいが、ひばりの招へいを夢と思っているなら止めなさい」と真剣な顔付になった。「何で?」といぶかる社長に彼は「昔から芸能人に惚れてショーを行う興行師は催しが成功した後に必ず不幸が起きる、というジンクスがある。美空ひばりは普通のタレントと違って天才だから、惚れると芸の鬼に食われるよ」と忠告したが、酔っていた社長は「そんなバカな」と笑い飛ばしてしまった。 ・・・・・つづく
Re: 『情熱のリオ』 - さくら
2009/10/31 (Sat) 22:21:09
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1970年8月、待ちに待った美空ひばりブラジル公演が実現の運びとなった。私は奥原社長に呼ばれて「ブラジルの恥とならないようにオーケストラは超一流のミュージシャンを集めてくれ」と頼まれた。日本から指揮者佐伯亮、リード・トランペット白礒哮、ドラム中西義郎それから三味線のお師匠さん、の四氏が同行、ブラジル側は私がスタジオ・ミュージシャンのトップ・クラスばかり15人をピックアップした。
会場はサンパウロ州立イビラプエラ体育館で、一日2回ステージが3日間、観衆は二万人を突破した。遠くはアマゾンの奥地をはじめ、ペルー、ボリビア、パラグアイ、アルゼンチン各国からも日系人が集まったのだから、さすがにひばりの偉大さ、と言うより他はない。
ショーが終ってからひばりさんが私に「オーケストラすごく良かった。お世辞じゃなくてアメリカよりうまいわよ」と言って握手してくれたのが忘れられない。
ミュージシャンたちはフランク・シナトラやと二―・ベネットのブラジル公演に伴奏するメンバーだから国際的なセンスが有り、日本音楽のフィーリングを実に良く表現してくれた。また、耳の肥えた演奏家全員が「言葉は分からないけど彼女の才能はすごい」と感心していたのも美空ひばりの実力を示す証しであろう。
初日の大盛況に幸福の絶頂だった奥原社長は、夜の部がはねてから酒の度が過ぎて、帰宅の途中に自分が運転する車をトラックにぶっつけて命を失ったのである。あまりにも突然な事故に関係者は声も出なかった。
社長は長年の大きな夢を果たした幸福な瞬間に他界してしまったのである。
翌年、訪日した私は新宿でバタやんとバッタリ出会った。彼はコーヒーを飲みながらサンパウロで奥原氏と私と一緒に飲んだ夜を思い出して「君、おぼえているだろう?僕があれだけ忠告したのを」と言ってからお互いにしばらく言葉が出なかった。 ・・・・・おわり
2009/10/31 (Sat) 20:07:07
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歌手、美空ひばりが亡くなって今年で20年。昭和を代表する大スターの実像を解き明かす本「ひばり伝」が話題だ。
著者で俳人の齋藤愼爾さんは「日本人が高度経済成長で失ったものが、美空ひばりの中にある。それをあらためて確認したかった」と語る。
美空ひばりは1937年横浜生まれ。9歳で初舞台に立ち、「悲しき口笛」でスターに。「東京キッド」「リンゴ追分」など数々のヒット曲で人気を博したが、昭和から平成に改元された89年、52歳で死去した。
ひばりの2歳年下という斎藤さんは「焼け野原の戦後、さっそうと登場した彼女に日本人がどれだけ勇気づけられたことか」と振り返る。
美空ひばりに関しては作家や評論家らが相次いで書籍を出しており、その数は400冊以上とか。「さまざまな人が論じていて、出尽くしたかなと思っていました。でも、資料に当たったら、十分に解明されていない・ひばり・がいたんです」
斎藤さんが注目したのは、美空ひばりの「非近代性」。古い因習、道徳、価値観さえ崩壊した敗戦の焼け跡から再起しようとした日本人に対し、初期のひばりは「東京キッド」「越後獅子の唄」等「家になじまず街をさすらう人間の哀歌」で応え、熱烈に支持された。
「ひばりは廃墟、闇市というイメージと強く結びつくんです」。社会のアメリカ化、経済復興にまい進する社会の趨勢に乗り切れない人々の心情をすくい取ったのが美空ひばりだった。
「ひばりは当初、文化人らから異端者、ゲテモノ扱いされた。それは、近代に象徴される合理性と対極の前近代的な非合理性を批判されたのでしょう。でも、だか羅こそ諸問題を内包する近代を乗り越えるための、計り知れない豊かさが彼女にはありました」
戦後の政治・経済の制度や仕組みの見直しが本格化する中、「置き去りにしてきたもの」を再発見することが必要ではないかと斎藤さんは考えている。
「ひばり伝」は、講談社刊、1890円。
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十七回 - さくら
2009/10/27 (Tue) 22:41:29
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*第十三回〜十六回はパスします。
「色白で、目が澄んだ男、ああ、たまらなく好きよ!」 〜可憐な13歳のころにあこがれた鶴田浩二の面影を忘れることがなかった。小野満、中村錦之助と恋をし小林旭と結婚。そして離婚した後も・・・・
女王はハンサムな男性が好きだった。
「ひばりが恋した男性はみんな、色白で目が澄んだいい男ばっかりでした。それはたぶん、初恋の人・鶴田浩二の面影がずっと忘れられなかったからdrしょう」(ひばりと親しかった映画関係者)
ひばりが初恋の人・鶴田浩二と出会ったのは、昭和26年11月に公開された映画『あの丘越えて』で共演したときのことだ。
当時ひばり13歳、鶴田は26歳だった。ひばりは牧場の少女で、大学生役の鶴田に淡い恋をする役だったが、撮影を通じて、ひばりは役柄と同じように恋心を抱くようになったのだ。
「ひばりは鶴田のことを“お兄ちゃん”と呼んで、はたで見ていてもほほえましくなるほど、彼のことを慕っていました」(前出・映画関係者)
撮影が終っても淡い交際はつづいた。
28年1月、興行上のトラブルから、山口組組員が鶴田を遅い重傷を負わせるという事件が起った。
【恋をするにも自分より格が上の相手などもういなかった・・・】
「あのときひばりは“なぜあんないいお兄ちゃんを、おいちゃんの組の人がいじめたの!”と泣き叫んでいました」(レコード会社幹部)
「おいちゃん」とひばりがよぶのは山口組・田岡組長。じぶんの後援者であるその田岡組長の子分が、兄とも慕う鶴田を襲ったのだから、ひばりにとっては二重のショックだった。
そして、それ以来、ひばりは鶴田への憧れの気持ちを抱きながらも、2人の関係は疎遠になっていった。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十七回 - さくら
2009/10/30 (Fri) 00:04:01
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次は小野満さん。小野さんとの恋については、すでにこの連載で取り上げたので繰り返さないが、当時の小野さんは「ジャズ界ナンバーワンのハンサム」といわれ、やはり色白。どこか鶴田を思わせる顔立ちだった。
小野満さんとは昭和29年に出会って、33年に破局を迎えている。小野さんの次は中村錦之助(現・萬屋錦之介)だった。
ひばりと錦之介は、昭和29年2月公開の映画『ひよどり草紙』で共演。当時ひばりは16歳、錦之介は22歳だったが、錦之介は映画初出演だったので、映画ではひばりのほうが先輩だった。
「ひばりが錦之介にいろいろ教えたりして、2人はとても打ち解けて兄妹のようだった」(前出・映画関係者)
そんな「兄妹」のような仲が恋に変ったのは、昭和34年のこと。
「そのころ、錦之介はもう押しも押されもせぬ大スターになっていた。若かったひばりは、自分よりも格下の相手では燃えることができなかったんですが、錦之介がスターになったことで、一気に燃え上がったんです」(前出・映画関係者)
2人は、結婚寸前の仲だった。がだ、錦之介の母・小川ひなさんが、この結婚には猛反対。
「ひなさんには歌舞伎界の名門というプライドが強く、この結婚に反対したんです」(歌舞伎にくわしい演劇評論家)
泣く泣く錦之介と別れたひばりは、昭和36年夏に小林旭と出会い、結婚。そして39年6月離婚。
「離婚の最も大きな原因は、ひばりのほうが旭よりも大スターだったということ。旭がひばりに嫉妬して、ひばりの仕事に口を出すようになったのが原因なんです」(前出・レコード会社幹部)
ひばりはすでに“女王”になっていた。
恋をするにも、自分より格上の相手などはもういない。しかし、格下の相手と結婚すれば、小林とのようにうまくいかないことは、目に見えている。
それ以来、恋をしてもひばりはもう、結婚をあまり考えないようになっていった。
ひばりが次に恋した男性は林与一。
林とは昭和41年のひばり公演で共演し、
「ラブシーンが真に迫っている」
と評判になり、その後も共演をつづけたが、44年に別離。
その後相手役に起用されたのは船戸順。船戸は結婚していたのだが、ひばりとプライベートにも燃え上がってひばり御殿に入りびたりになり、後に妻とも離婚。しかし、この恋は長くはつづかず、1年半ほどで破局。
次にひばりが熱をあげたのは里見浩太朗。2人はずっと以前から親しい仲だったが、昭和50年7月に、里見がひばり御殿を訪ねたことから、恋が芽生えた。
里見がひばり御殿を訪ねたのは、自分が主演していた『大江戸捜査網』(テレビ東京)の200回記念に、ひばりにゲスト出演してもらうよう依頼するためだった。
ひばりは二つ返事でOKしその年の8月に里見が離婚したこともあって、2人の中は急接近。その後、密接な関係が2年ほどつづいた。
「はかにも、俳優の大村文武やテレビ局ディレクター、コロムビアのディレクターなど、ひばりは次々と恋をしていったんですが、相手はみんなひばり好みのハンサムでしたね」(舞台関係者)
結婚に失敗し、家庭的には恵まれなかったひばりだったが、いつもときめくような恋心を絶やすことはなかった。
女王は、恋多き多感な女性でもあったのだ。 ・・・・・第十七回おわり
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十二回 - さくら
2009/10/25 (Sun) 08:52:23
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*第八回〜十一回はパスします。
「『紅白』をめぐる女ひとりNHKへの反逆!」 〜デビュー当時以来、NHKから別格扱いを受けて来た女王が、実弟の暴力事件発覚で『紅白』連続出場も16回でストップ。それを機に、大NHKの権力との終わりのない戦いに・・・・
美空ひばりがNHK『紅白歌合戦』に落選したのは、昭和48年のことだった。
前回で触れたように、この年、ひばりの実弟・かとう哲也と暴力団の黒い交際が大きくクローズアップされ、全国の公共施設でひばりショーのボイコットが行われていた。
それでも、ひばりは自分のショーに哲也を出演させつづけていたため、世間のひんしゅくをかっていた。
そして、同年9月3日、哲也は暴力団から拳銃を買った疑いで逮捕されたのだが、それでもなお、ひばりは弟をかばいつづけた。
そしてその年の11月21日、NHKの『ご意見をうかがう会』の池田弥三郎委員長は「『紅白』からひばりを降ろす」ことを発表。それに先立って(一字不明)かれたNHKの部長会でも、ひばりは出演候補には入っていなかったから、池田委員の発言はNHKの意向をそのまま受け入れたものだった。
『紅白・・・・』出場歌手選定の参考となる、視聴者アンケートで、ひばりはこの前年まで常に3位以内に入っていたがこの年はさすがに10位前後に落ちていた。
しかし、出場者数は紅組で22組。10位前後なら十分に資格があっただけに、落選は視聴者の意志だけではなく、あくまでもNHKの判断が強かったのである。
それだけに、ひばりはNHKの態度に激怒した。
翌11月22日、大阪梅田コマ劇場の『美空ひばり特別公演』の舞台で、ひばりはファンに向ってこう語りかけた。
「『紅白』に出なくても、大みそかにはTBSのレコード大賞でお目にかかれます。弟・かとう哲也の作曲した『思い出の鞄』を歌います」
そして歌い終わったひばりはつづけた。
「美空ひばりは健在です。
今は黙して語らず、じっと我慢の子です。雑草は踏みつぶされるほど強くたくましくなるのでございます」
これは、ひばりのNHKへの訣別の言葉だった。
ひばりとNHKの因縁は古く、昭和21年暮れにまでさかのぼる。当時はまだ美空和枝といったアマチュア時代。
NHKの『のど自慢素人音楽会』の予選会に出たひばりは『リンゴの歌』を歌ったのだが、カネはひとつも鳴らなかった。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第十二回 - さくら
2009/10/26 (Mon) 14:36:38
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【『紅白』には47年まで連続16回、そのうち13回のトリに選ばれて】
カネが1つなら不合格。カネがたくさん鳴ったら合格。しかしひばりには、カネが鳴らなかった。「子供が大人の歌を歌うのは、教育上好ましくない」という理由で、判断がためらわれたのである。結局は、(一行不明)。
24年になって、ひばりの『悲しき口笛』が大ヒットすると、NHKから出演依頼がはじめてきた。
そのとき母の喜美枝さんは、
「NHKで一番高い出演料をとっているのはどなた?おいくら?」
と聞いた。当時最も高かったのは藤山一郎で、ギャラは5千円。喜美枝さんは、
「じゃ、うちのお嬢は1万円なら出演します」 といった。喜美枝さんは、あの『素人音楽会』の屈辱を晴らしたくて、そうふっかけたのだが、NHKは本当にその条件をのみ、ひばりはNHKに初出演した。
ひばりは、プロとしてのデビュー当時から、NHKから特別あつかいを受けていたのである。
そんなひばりが『紅白・・・・』に初出演したのは、昭和29年の第5回。
しかし、第6回と第7回は出場していない。
当時は、まだ『紅白・・・・』もそれほどの人気はなく、後のように出場することが歌手の人気のバロメーターになるということもなかったのである。
そして、32年の第8回に歳出場してから、47年の第23回まで、ひばりは16回連続出場を果たしている。
しかもそのう第11回、12回、13回のを除いて、すべてひばりがトリを務めている。
その間に、ひばりが押しも押されもせぬ“女王”になったという事実はあるにせよ、いかにNHKがひばりを別格あつかいにしてきたかが、よくわかるだろう。
そんなNHKに、突然切られたのだから、ひばりの悔しさはひとしおだった。
「お母さんにさえ口をきかないくらいで、ピリピリしていて、弟たちは顔を合わさないように逃げ回っていました。周囲も、ハレものに触るようにしていました。ひばりは、NHKの市井に腹を立てていたんです。その後もずっと心の底ではNHKを許そうとはしていなかったと思います」(レコード会社幹部)
それから3年たって、NHKの側からひばりにアプローチがあったが、ひばりは、
「ほかの番組なら考えてもいいけど、『紅白』だけは絶対にでないわよ」
と、態度を変えなかった。
そして、翌年1月に、ひばりの帝劇公演の舞台中継がNHKで放映されたのを皮切りに『歌のグランドショー』や『昼のプレゼント』への出演がつづいた。
しかし、『紅白・・・・』には、54年に1度“特別ゲスト”として出演した以外は、ついに生涯出ようとはしなかった。
「(1行不明)り出そうとして、NHKとしてはいろんな方法を使ってアプローチした。政治家に間に入ってもらったり、高名な作家に頼んで口説いてもらったり。
それで毎年“今年こそひばり出演か”と話題になりながら、結局ひばりは一度も出ようとはしなかった」(放送関係者)
都合の悪いときには、情け容赦もなく切り捨て、状況が変わると頭を下げてくる。
そんな大NHKの“権威”に対して、ひばりは終生闘いつづけていたのである。 ・・・・・第十二回おわり
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第七回 - さくら
2009/10/23 (Fri) 00:52:24
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「母・喜美枝さんこそハマの太陽だった!」 〜加藤家の“希望の星”だった娘・ひばりに賭けたすさまじい女の執念。下町育ちのあけっ広げな性格で、夫・増吉さんの浮気騒動も屁のカッパ、それでも時には自宅の片隅で、そっと涙を流す知られざる一面・・・・
美空ひばりの母・加藤喜美枝さんは、昭和56年7月29日、転移性脳腫瘍のため、68歳で亡くなった。
生前の喜美枝さんとひばりは“一卵性母娘”と呼ばれたほどで、いつも一緒に行動し、考え方やものの感じ方までそっくりといわれていた。
終戦後のひばりがまだ8歳のときに、美空楽団を結成してひばりに歌手活動を始めさせ、後に“女王”と呼ばれるようになってもなお、ずっとひばりにぴったりと寄り添っていた喜美枝さん。
必死になってひばりを売り込み、ひばりを日本一の歌手に育て上げた、事実上のプロデューサーでもあった。
それだけに、喜美枝さんには“ものすごいやり手”というイメージがつきまとっていた。家庭もかえりみずひたすらひばりに賭けた、すさまじい執念の母・・・・というイメージである。
喜美枝さんの素顔ははたして、そんなイメージどおりだったのかどうか・・・・・・。
喜美枝さんは大正2年、東京・南千住の石炭商・諏訪又吉・シサ夫妻の7人きょうだいの長女として生まれた。父の又吉さんは“仏の又さん”と呼ばれたほどのやさしい人で、色黒で小柄。喜美枝さんの外見は、この父にとてもよく似ていた。
母のシサさんは声がよく、芸事が好き。喜美枝さんは、そんな性格を母から受け継いでいた。
「又吉さんは人がいいためにあるとき、取引先にだまされて、取引ができないことになってしまった。そのとき、まだ小学生だった喜美枝さんが、取引先に怒鳴り込んだんです。それくらい、喜美枝さんは向こう気の強い女性でした」(諏訪家の知人)
それ以来、喜美枝さんは父の仕事を手伝い、リヤカーを引っぱったりするようになった。
「とても働きものでね。リヤカーを引っぱっているところを男の子たちに冷やかされたりすると“今に見てろ、大金持ちになって見返してやるから”と気にもとめませんでした。とても明るい性格なんです」(前出・知人)
めっぽう明るくて、気も強い“ハマッ子の太陽”のような娘だった。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第七回 - さくら
2009/10/24 (Sat) 08:52:04
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そんな喜美枝さんが、小さな魚屋『魚増』の主人・加藤増吉さんと入籍したのは、昭和12年5月18日。同年5月29日に、長女・和枝が誕生しているから、その直前の入籍だった。
「2人がお見合いをしたのはその2年ほど前。でも、そのとき増吉さんには好きな人がいたため、1度は断ったんです。それが、しばらくしてから一緒になったんですが、好きな人への想いが断ち切れなかったため、入籍は子どもの誕生ギリギリまで、のびてしまったそうです」(加藤家の親戚の人)
増吉さんが思いを寄せていた女性は、河原サヨさんという女性だった。サヨさんは近所でも評判の美人で、増吉さんが独立して『魚増』を出したころには、離婚して嫁ぎ先から実家にもどっていた。
増吉さんは喜美枝さんと結婚してからも、サヨさんのことが忘れられず、サヨさんとの間に子供をもうけている。
喜美枝さんは、そのことには全く気づかず、黙々と働きつづけていた。
「おばちゃん(喜美枝さんのこと)は、無の人でした。ふだんは、いつも朗らかな話し上手の楽しい人で和枝ちゃん(ひばり)や妹、弟さんたちをよく笑わせていました。家では粉おしろいや口紅をつけたのを見たことがありませんでした」
そう証言するのは、ひばりの生家の向いに住み、ひばりとは同い年の同級生でもあった田中素子さん。
【強気の母、喜美枝さんも、身内の前では、よく涙を流していた】
「喜美枝さんが増吉さんの浮気を知ったのは、昭和18年、増吉さんが軍隊に入営したころでした。でも、喜美枝さんは騒いで増吉さんを責めたりせず、平気な顔をして一生懸命、銃後の妻として働いていました」(前出・親戚の人)
夫の浮気も屁のカッパと気にせず、明るく働きつづけた喜美枝さん。
「おばちゃんは、増吉さんが浮気して、家を留守がちでも、それを責めたてたり、問いつめたりすることは、全くありませんでした。
でも、家の片隅でふっと涙ぐんでいたりしたのを、ときどき見かけました。気の強い女性といわれていたけど、おばちゃんもつらかったんだと思います」(田中素子さん)
また、喜美枝さんがチャンバラ映画を見てきては、そのストーリーの話になると、“こういうところが泣けちゃう”と、本当に涙を流すことが多かったという。
加藤家と田中家は、家族ぐるみで親戚付き合いをしていて、お互いの家を自分の家のように気軽に行き来する仲だった。
「おばちゃんは、本当に頑張り屋。あけっぴろげな性格で、思ったことは何でも口にし、がむしゃらに頑張るんです。
そういうところが誤解されて、すごく出しゃばりな人のように思われているけど、本当は違うんです。増吉さんや、和枝ちゃんの妹や弟のめんどうもみないで、和枝ちゃんに付きっきりで外を出歩いていたようにいわれているけど、本当は家庭を円満にすることをいつも考えていて、増吉さんにいつもお父さん、お父さん、と相談していましたよ。
そして、巡業から帰ると、いつもうちの母に、留守中に妹や弟がどうだったかを聞いて、一生懸命に子供のめんどうもみていたんです」(田中素子さん)
そんな、“ハマッコの太陽”のような喜美枝さんがいてこそ、ひばりは大きく輝くことができたのである。 ・・・・・第七回おわり
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第六回 - さくら
2009/10/17 (Sat) 23:34:51
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「出席日数8日間恩師の特別処置で小学校なんとか卒業!」 〜歌手生活が軌道に乗り、小学6年生の授業もほとんど欠席。卒業は教育委員会の猛反対で一度は暗礁に乗り上げかけたが、学年主任と校長との恩情溢れた10日間の特訓で・・・・
美空ひばりは、小学生のころから“天才少女歌手”といわれてきた。
そのことについては、数多くの証言者が語っている。しかし、歌を離れたひとりの少女としての加藤和枝は、どんな少女だったのか。
それについては、ほとんど語られていない。
ひばりの横浜市磯子区滝頭の生家の向いに住み、年が同じで小学校の同級生でもあった、田中素子さん(52歳)が話す。
ひばりと田中さんは、もの心ついたころから“和枝ちゃん”“素ちゃん”と呼び合い、一緒に遊んだ仲だった.
「お互いの家に入り込んで、よく押し入れの中に入ってお人形さんごっこをしたり、ままごとをしたり、お店屋さんごっこをしたりしました。
和枝ちゃんは、たしかに小さいころから歌が好きで押し入れの中でよく『九段の母』を歌っていましたね。でもねえ、普通の女の子と同じように、遊びも大好きだったんです。
ところが、歌の仕事がだんだん忙しくなって、普通の遊びがなかなかできなくなって、寂しそうでした。
学校も、“わたし学校へ行きたいのよ”と、最初は大好きだったんです。ところが、小学校2年生になったころから巡業と舞台で学校も休みがちになり、たまに学校に行くと、イジメッ子にイジメられるようになり、だんだん嫌いになってしまったんです」
ひばりが小学校へ入ったのは、昭和19年。当時の横浜市滝頭国民学校だった。
終戦の年の20年。ひばりは2年生になっていたが、美空楽団と一緒に、歌の活動がふえ、学校を休みがちになった。
髪にはパーマをかけ、服装もほかの子とはちがって派手になっていった。
そんな子を、イジメッ子たちが見逃すわけがない。
「おい、加藤、ここで歌ってみろ!」
と、学校へ行くたびにイジメッ子たちに歌わされ、ひばりはしだいに学校嫌いになっていったのだ。
昭和22年4月、4年生になったばかりのひばりは、四国巡業に出かけ、そのころからひばりの歌手活動は本格化して、ますます学校を休むことが多くなった。
そして、6年生のときには、1年間トータルして出席日数はわずか8日間。
昨年亡くなった当時の横浜市立滝頭小学校(22年に学制改革で改称)の佐野孝校長の妻・寿々さん(82歳)が、こう証言する。
「主人としては、子供は平均にあつかうのがモットーでした。
だから、いくらひばりさんでも、出席日数が圧倒的に少ない子を、特別あつかいで卒業させることはできないといってたんです。
ところが、最初は卒業させることに猛反対していた市の教育委員会が、後になって“あの子は外貨を稼ぐ大事な子だから、なんとか卒業させてほしい”といってきたんです」 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第六回 - さくら
2009/10/20 (Tue) 23:57:17
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【美空ひばりの卒業式は学校長と学年主任の恩師の3人だけで・・・】
当時は今とは違って、外貨を稼ぐということは、並大抵のことではなく、きわめて貴重なことだったが、ひばりはその年(25年)の5月に、ハワイ、アメリカ公演に出発することになっていたのだ。
ひばりサイドの人間がそれを盾に教育委員会へ圧力をかけたのだろう。
「それでも主人は、やはり規則を曲げるわけにはいかないと、ひばりさんを卒業させることには反対でした」(佐野寿々さん)
そのときに、なんとかひばりを卒業させてやりたいと力を尽くしたのが、当時の6年生の学年主任・岡野英雄先生(84歳)だった。
「私が春休みの間に、責任をもって補習授業をやるから、卒業させてほしいと、校長に頼み込んだんです」
岡野先生は、3月23日の一般児童の卒業式の翌日から10日間、ひばりひとりを相手に、補習授業の特訓を行った。
「毎日朝8時半から、午後4時半までビッシリ。職員室の私の机に座らせて特訓をやったんですが、ひばりちゃんは泣き言ひとついわず、よくがんばりました。
やってみて驚いたんですが、ものすごく記憶力がよく、集中力もある。国語、理科、社会の3科目は、教えたことはすぐに覚え、テストをしてみても、ほとんど100点でした。算数も一生懸命ついてきて、やっぱり100点をとった。
ひばりちゃんの同級生で、後に東大の法学部へ行った男の子がいますが、まともに学校へ出ていれば、その子と同じくらいできるんじゃないかと思ったくらい、頭がよかった」
こうして、岡野先生の情熱あふれる補習のおかげで、ひばりはなんとか卒業にこぎつけた。
ひばりひとりの卒業式は、4月3日、校長室で佐野校長と岡野先生の3人だけで行われた。
「春休み中なのに、主人がモーニングを着て出かけようとするので、“どうしたんですか”と聞いたら、ひばりさんがやっと卒業できることになったので、これから行くというんです。主人もうれしそうにしていました」(佐野寿々さん)
校長先生から卒業証書を手にしたひばりは、目に涙を浮かべて「先生のご恩は一生忘れません。立派な歌手になってみせます」と岡野先生の手を強く握りしめた。
ひばりにとっては、恩情あふれる、忘れがたい卒業式だった。 ・・・・・第六回おわり
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第五回 - さくら
2009/10/16 (Fri) 00:27:57
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「『歌わないで!』笠置シヅ子さんからの内容証明に悔し涙」 〜昭和23年、近江俊郎が歌う『湯の町エレジー』とブギの女王の『ヘイヘイブギ』が空前の大ヒット。その女王から送りつけられた“歌唱禁止”の通知にひばりさん母娘は・・・・・・。それから40年余、いま笠置のひとり娘・エイ子さん(42)が明かす真相・・・・
美空ひばりが、ようやく日本コロムビアと契約にこぎつけたのは、昭和24年2月、日本コロムビアの『春のヒットパレード』に出演した直後のことだった。
そして、その年の8月にひばりにとっては3本目になる映画『踊る龍宮城』(松竹)に出演し、その中で初のオリジナル曲『河童ブギウギ』を歌い、レコーディングもした。
さらに9月には『悲しき口笛』(松竹)に初出演し、同名の主題歌をレコーディングして、これが大ヒット。
ようやく、ひばりはオリジナル曲を持つプロ歌手として認められるようになったわけだが、それまではずっと、他人の持ち歌を歌う、“チビッ子モノマネ歌手”だった。
とりわけひばりが得意としていたのは、当時人気絶頂だった笠置シヅ子の『ヘイヘイブギ』や『東京ブギ』だった
他人の持ち歌を歌って、どんどん人気が出てきた少女歌手・・・・そんなひばりに対し批判の声も数多くあった。
あるとき、淡谷のり子が楽屋で、
「あんな小さい子に、大人の歌を歌わせるなんて、気持ちが悪い。どんな親が歌わせているのか、親の顔が見たいわね」
といったことがあった。
そして、たまたまそれを聞いた気の強いひばりの母・喜美枝さんが、「私が親です。そんなに私の顔を見たいのなら見せてあげるわ」と、淡谷の前に顔を出すというひと幕もあった。
当時のひばりをとりまく雰囲気を、ディック・ミネはこう証言する。
「当時の歌手たちは、みんなひばりを嫌がっていた。大人のマネをするのは、気持ち悪いというんだ。
でも、ボク自身はかまわないと思っていた。実際に聴いてみると、実にうまいしね。身体の中からスイングしているようで、うまいなあと、びっくりした。
それでボクは彼女をかわいがってやったものだから、会うと“おじちゃん”といって、ヒザの上にちょこんと座る。それがかわいくて、そてに子供なのに、妙なお色気もあってねえ・・・・・・。
ああ、そうそう、ひばりちゃん母娘とハワイへ行ったとき(18歳のころ)のこと、彼女だけを黒人の“オチンチンショー”へ連れていってあげたんだが、彼女は“きょうは楽しくてどうもありがとうございました”といってたね」
昭和23年9月、浅草国際劇場の『帝蓄祭り』にひばりが出演したときディック・ミネは自分専用のマイクを、ひばりだけに貸してやったことがある。
ひばりは、周りの歌手たちからは、いつも煙たがられていた。それだけに、ミネのこの親切は、ひばりと喜美枝さんにはことのほかうれしく、2人は終生、ミネの恩を忘れなかった。
大人の歌を歌うひばりを嫌がっていたのは、歌手たちだけではない。
昭和25年1月、詩人のサトウ・ハチローは新聞に『ゲテモノは倒せ』というタイトルでこう書いた。
《ボクの嫌いなものはブギウギを唄う少女幼女だ。一度聞いたら(というより見たら)やりきれなくなった。消えてなくなれと、どなりたくなった》
当時ひばりはすでにオリジナル曲を持っていたとはいえ、まだ笠置の歌も歌いそれが売りものになっていたのである。そして、当の笠置からも思わぬ反撃が・・・・・・。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第五回 - さくら
2009/10/16 (Fri) 23:17:45
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【「母は常識を訴えたkさったのでは・・・」と笠置の実娘・亀井さん】
昭和23年10月、横浜国際劇場で『秋の国際祭り』が催され、これには笠置もひばりも出演。その年の春(4月)に売り出された笠置の『ヘイヘイブギ』が大ヒット中で“本家”と“モノマネ”が同じ曲を歌ったのである。
このときは、笠置はひばりの歌を「かわいいね」と、まだ余裕を持って許していた。
ところが、翌24年1月、ひばりが東京・日劇の『灰田勝彦ショー』に出演する直前になって、笠置から「自分の持ち歌を唄うことは、まかりならん」という圧力がかかってきた。
びっくりしたひばり側は、福島マネジャーが笠置のもとに足を運び、「なんとか歌わせてほしい」と頼み込んだ。
その結果、笠置は『ヘイヘイブギ』の前の年に出た『東京ブギ』を歌ったことがなかったが、出番の直前に覚え、なんとか歌い終えた。
そして翌25年5月、ひばりが川田晴久とはじめてのハワイ公演に出発する直前にも、笠置と作曲家の服部良一の連名で、「歌っては困る」という内容証明付きの手紙が送られてきた。
「ひばりちゃんと喜美枝さんは、あのときは本当に悔しがっていました。“いまに見てろ、もっと素晴らしい歌手になってやる”という気持ちだったに違いない」
そう証言するのは、当時ひばりにレッスンしていた作曲家・万城目正さんの弟子・山田宗次郎さん(75)だ。それにしても、なぜ笠置はそんな非情とも思える通知を出したのか。昭和60年に70歳で亡くなった笠置にかわって、ひとり娘の亀井エイ子さんは、
「母は他人の悪口や批判をしたことのない人でした。ですから、ひばりさんに対しても意地悪をしたわけではないんです。
ただ母は“常識”というものを、とても大切にする人でしたから、“他人が一生懸命歌っているものを、奪うようなことをしてはいけない”という常識をひばりさんに訴えたかったんだと思います」
と証言するのだが、あまりのひばり人気に、さすがの“ブギの女王”も、脅威を感じはじめていたのかもしれない。 ・・・・・第五回 おわり
証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第四回 - さくら
2009/10/12 (Mon) 00:09:19
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「レコード会社への売り込み3社に拒否された!」 〜昭和23年から24年にかけて、母・喜美枝さんは娘の売り込みに懸だった。だが、当時の「テイチク」「キング」「日本ビクター」の大手レコード会社からは、モノマネ、ゲテモノとして、冷たく門前払いの扱いを受け、母娘は悔し涙に泣いた・・・・
昭和23年5月、美空ひばりは横浜国際劇場に出演し、初めて大劇場に進出した。
ひばちの年譜を見ると、それからは順風満帆で、またたく間にスターダムにのし上ったように見えるが、実際にはそうではなかった。
涙ぐましいまでの必死な売り込みと、それにもかかわらずいくつかの挫折があったのである。
ひばりの母・喜美枝さんが、ひばりをプロ歌手にしようと必死に売り込んでいたことはすでに書いた。
そしてこのころにはもうひとり、喜美枝さんにおとらずひばりに惚れ込んだ人物が現われた。福島通人さん(故人)である。
福島さんは元吉本興業の社員で、後に横浜国際劇場の支配人となり、ひばりの同劇場出演を決めた人物である。
そして、福島さんは同劇場でのひばりの歌を聴いてますますひばりにのめり込み、その公演直後には、とうとうひばりのマネジャーになってしまった。
マネジャーになった福島さんは、喜美枝さんと一緒に各レコード会社へ猛烈な売り込みをかけた。
ターゲットとなったのは、帝国蓄音機工業(後のテイチク)、キングレコード、日本ビクター。日本コロムビアの4社だった。
「ひばりはずっと大人のモノマネで人気を得てきたが、本当のプロ歌手になるためには、オリジナル曲のレコードを出さなければ・・・・・・」
と思ったからである。
福島さんが、最も熱心に売り込んだ先は、帝蓄だった。
23年9月、帝蓄は東京・浅草国際劇場で、『帝蓄祭り』を開催したが、その10日前に福島さんは強引な売り込みをかけた。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第四回 - さくら
2009/10/12 (Mon) 23:10:45
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【子どもの歌う流行歌なんて売れたことがない」と拒否を
売り込みの相手は、当時の帝蓄・川崎清文芸部長。日本コロムビア時代に高峰三枝子、藤山一郎、並木路子らのヒット曲を出し、帝蓄に移ってからもディック・ミネの『上海ブルース』や田端義夫の『かえり船』をヒットさせ、“名ディレクター”の名をほしいままにした人物である。
「なんとか、ひばりを東京の大劇場に出したい。お願いします」
と売り込む福島さんに、川崎ヅ長は、
「すでに出演メンバーも決まっているし、帝蓄の専属でもない」
と、もっともな理由で断った。
それでも福島さんは何度も足を運び、当時、帝蓄のトップだったディック・ミネにも頼み込んだ。
そして、ちょうどそんなときに、菊池章子が病気で欠場することになったため、そのピンチヒッターとして『星の流れに』を歌うことで、ようやく出場OKとなった。あくまでも台役でモノマネをすることが前提だったのである。『帝蓄祭り』に出場した豆歌手は、崩れたワンピースにネッカチーフ、くわえタバコという娼婦姿で、巧みに『星の流れに』を歌い、大ウケだった。
そして、その千秋楽の日、母・喜美枝さんは川崎部長に猛烈に迫った。
「どうです。これだけウケているんですからなんとか部長さんのお力で、オリジナルレコードを出していただけませんでしょうか」
しかし、この名ディレクターの返事は「ノ―」だった。
「うまいことは認める。しかし、子どもの歌う流行歌なんて、売れたことがない」
というのがその理由だった。
いま88歳になった川崎さんは当時をふり返ってこう話す。
「あのときレコードを出さなかったことは、今にして思えば、実に残念なことをした。でも、ボクとしては、ひばりさんが東京での大舞台を初めて踏むきっかけを作ったことを、幸せだったと思っています」
福島さんが猛アタックをかけていたキングレコードも日本ビクターも、門前払いに等しいあつかいで、レコーディングを断ってきた。
合計3社に断られた福島さんと喜美枝さんは、涙を流して悔しがったのだが、半年後に救いの神が現れた・・・・。 ・・・・・つづく
Re: 証言構成「ひばりさん女王伝説と真実」 第四回 - さくら
2009/10/13 (Tue) 22:31:32
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【歌のわかるスタッフの99.9パーセントは大反対した!】
ひばりは昭和24年2月東京・有楽町で行なわれた日本コロムビアの『春のヒットパレード』に出演した。
「その前の年の横浜国際劇場にひばりちゃんが出たとき、福島さんに何度も足を運ばれて“とにかく見てくれ”といわれていた。それで見に行ったところ、あまりのうまさに度肝を抜かれて、“来年のコロムビア大会にはぜひ出してみよう”と、ひそかに決めていたんです」
そう話すのは、元コロムビア宣伝部長の坂田哲郎さん(現クラウンレコード宣伝顧問・72歳)である。
坂田さんは、有楽町に出演したこの天才少女歌手を、当時の上司・元コロムビア文芸部長の伊藤正憲さん(現クラウン相談役・89歳)にみせた。
「これは商売になる!」
伊藤さんは即座に、そう判断した。
「私はもともと営業畑で、歌については素人だが、直観的にこれはいけると思った。しかし、歌のわかるスタッフの99.9パーセントは大反対した」(伊藤さん)
制作の専門スタッフのひとりは、こういった。
「今はうまくても、必ず声変わりをする。将来性を考えると、やめたほうが得策だ」
他のレコード会社同様、やはり反対意見が強かったのである。
しかし、伊藤さんは、
「あの子はすでに大人の声で大人の歌を歌っている。大丈夫だ!」
と反対を押し切り、ひばりと専属契約を結んだ。
「契約に現われたお母さんは、涙をボロボロ流して“ありがとうございます”といっていた」(伊藤さん)
ついにプロ歌手・美空ひばりが誕生したのである。 ・・・・・第3回 おわり