美空ひばりファン専用掲示板

※ この掲示板は美空ひばりファン専用の掲示板です。ファンの皆様でいろいろな情報交換をして、楽しみましょうネ・・・・・
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「マドモアゼル」 1967年11月号 - さくら

2009/06/27 (Sat) 23:49:09
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《日本一の歌手三十年の歩み》 告白的半生記『恋と歌 二十年の譜』 ・・・美空ひばり

【歌謡界にデビューして二十年・・・常に王座に君臨してきた筆者が初めて綴る幼き日の母と父と妹弟の思い出】

★私を育てた環境
 横浜市磯子区滝頭町・・・通称“屋根なし市場”と呼ばれるマーケットの一角に、一軒の魚屋がありました。屋号は『魚増』。それが私の生まれた町であり、生まれた家です。
 昭和十二年五月二十九日の朝五時に、私はこの世に産声をあげたのでした。父は加藤増吉。母は喜美枝。その長女である私は、昭和の和と、母の名から枝をとって、和枝と命名されました。
 大変な難産で、陣痛がはじまってから生まれるまでに、三日もかかったといいます。あまりのひどさに、一時は機械で出そうということになったのですが、母はどうしても同意せず、自分の力でとうとう生み落としたのでした。
「どんなに苦しくとも、自分の力で生むのが母の喜びだし、誇りにもなると思って頑張ったんだよ」
 母はそのときのことを思い出して、こう言います。母の何気ないそのことばは、私を感動させずにはおきません。
 母を人一倍苦しめ、それでも母の愛情に守られてこの世に生を受けた私・・・出生時のことを聞くたびに、私は母とこの私の間に結ばれているきずなに、何か運命的なものを感じるのです。
 体重は二千五百グラム。その上難産のためか、頭の長い赤ちゃんでした。
 しかし、父母にとってははじめての子。若かった母が私を誇らしく感じ、抱いて近所に見せて歩いたのも当然です。ところが赤ちゃんの私ときたら頭がひょろ長いものだから、近所のひとは、さっそく私に“ツェッぺリン”というあだ名をつけたのでした。
“ツェッぺリン”というのはドイツの飛行船の名前で当時日本にも訪問飛行にやってきて、たいへん評判を呼んだものだそうです。その葉巻き型のひょろ長い形が、私の頭に似ていたのでしょう。
「金ヅチがないときは、魚増の赤ん坊を借りてきて、あの頭で釘を打てばいい」
 などとも言われて、母をたいへん口惜しがらせたといいます。
 でも、そんなエピソードを聞くにつけ、私に注がれた母の愛情と私が生まれ育った町の庶民的な雰囲気がしのばれてなりません。  
 魚屋という家業の性質上、母とはいってもい記事にかかりきることはできません。店のことから家業と、母には手に余る仕事があります。しかし、母は決して育児の手をぬいたりしませんでした。
 育児の本を三冊も読んで、母はきちっとした育児方針をたて、それを実行しました。たとえば、普通ならおむつはゆかたなどのおふるを使うのですが、必ず新しいガーゼをおむつにしたり、産衣には必ずさらしを使うというふうに、こまかい気遣いを忘れなかったのです。もちろん、母乳でした。
 妹が、そして弟二人が次々と生まれましたが、母は自分の育児方針を守りぬいて、決して手をぬいたりはしませんでした。
 こうして、私は、小さく生んで大きく育てるということば通りに、成長していったのです。  ・・・・・つづく

Re: 「マドモアゼル」 1967年11月号 - さくら

2009/06/29 (Mon) 01:19:15
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 地bんでいうのもおかしいけれど、私はカンの鋭い子だったといいます。
 満二歳のころ、母が童話の本を五冊買ってきて読んで聞かせると、私はたちまち暗記してしまったそうです。
 そのとき、母の読む口調を今やってもらうと、抑揚があって、たいへん、音楽的なのです。私は意味もわからず、母のその音楽的な口調を、口移しにおぼえこんでしまったものなのでしょう。
 それに父がよくいえば粋なひと、はっきりいえば道楽者で、芸ごとが大好きでした。都都逸、端唄からギターとなんでもござれで、幼い私の周囲には、そういうものがいっぱいあふれていました。ラジオからはいつも流行歌が流れ、レコードはよく回転していました。
 そういう雰囲気が、知らず知らずのうちに私に音楽的な感覚を植えつけたような気がします。
 お正月には町内対抗のかるた会がありました。父が近所のひとたちを集めて、錦会という小倉百人一首の会をやっていたのは、そのころです。
 毎晩のように町内のひとたちが集まってきて上の句を読んで、下の句をおぼえカードをとる練習をします。読み手は母でした。私は眠くなると、母にもたれて、その練習を聞くこともなく聞いていたそうです。
 あるとき、お店の小僧さんが「ちはやぶる」と仕事をしながら口ずさんで練習していたその時、私が「からくれないにみずくぐるとは」と、ぽつりと言ったのだそうです。
 みんなが驚き、狂喜した父が何枚覚えているかためしてみると、百首のうち八十二首をおぼえていたといいます。
 それも、母の独特の読みあげる口調を、音楽のように聞きおぼえてしまったものなのでしょう。自分の歌のことを考えるとき、私は幼いときに耳から身につけた感覚を、忘れることはできない、といつも思うのです。  

★戦争の嵐
 一般に、音感がすぐれていると、運動神経も発達しているといいます。
 ところが、私は運動神経はまるでダメなのです。歩き出したのも人一倍遅くて、ようやく二歳ごろだったそうです。足も遅くて、学校に行くようになってからも、体育の時間と運動会は、大の苦手でした。
 それが、一度音楽にのると、からだ全部がリズムにとけてゆけるのですから、私はどうなっているのだろうと、自分でも不思議な気がします。
 運動神経が鈍いせいか、人一倍危険を恐れる性質で、よくいえば慎重、悪くいえば臆病でもありました。危ないことを神経質に避ける気質は、今でも変わりません。
 たとえば、私の家ではどこかに遊びにいく時、近所の個人営業のハイヤーを使っていたのですが、子ども心にもそのひとの運転なら安心と思いこんでいたのでしょう。私は木村さんという運転手さんが運転しないと、ガンとして車にのらなかったのです。
 こんなふうににぎやかで幸福だった私の家にも、戦争の風はつめたく吹きつけてきました。  ・・・・・つづく

Re: 「マドモアゼル」 1967年11月号 - さくら

2009/06/29 (Mon) 23:40:13
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 父は兵隊にとられ、母が女手一つで店を守らなければならなくなりました。当時は、一時でも店を閉じると、もう二度と営業許可がおりないので、店を続けるためには、疎開することもできませんでした。
 雇い人も次々に出征してしまう。そのあとで、四人の子どもをかかえて働き続ける母の苦労はどんなだったでしょう。
 横浜も焼野原になりましたが、屋根なし市場のあたりは、奇蹟的に助かりました。
 そのころのことを、母は、あまり語りません。
 でも、ただでさえつらく苦しかった当時のことです。母が耐えしにび、がんばり続けた日々がどんなだったかは、容易に想像できます。
 しかし、そのとき、私はすでにもの心ついていたし、記憶もあるのに、不思議とつらかったとか苦しかったとかいう気がしないのです。
 空襲の夜、母が裏庭に掘った防空壕に、母子五人で息をひそめたこともおぼえていますが、こわかったとは思えないのです。むしろ、母の暖かい胎体にはぐくまれているような、安らかな記憶が残っているのです。
 戦争の暗い荒波を、母一人ががっしりと受けとめて、私たちきょうだいは、安らかに守られていたのでしょう。
 母の愛を思わずにはいられません。

★芸能界への厚い壁
 終戦。父ももどってきました。町は活気をとりもどし、復興のツチ音が響きました。
 そのころ、町では、素人芸能がさかんでした。それまで押さえつけられていたものが、そんな形で爆発したのでしょう。
 歌の好きな私のために母は、『美空楽団』という素人楽団を作って、あちこちで演奏するようになりました。
 私もその楽団で、美空和枝という名で歌うようになりました。ラジオやレコードで耳からおぼえたおとなの流行歌です。小さな女の子がおとなのような低音で、当時の流行歌手の歌い方をまねて歌うのが珍しがられたのでしょうか。どこでも私の歌はうけました。
 でも、私はそんなことはどうでもいいことでした。ただ、耳からおぼえた歌を自分なりに心をこめて歌い、それをみんな聞いてもらうのが、うれしくてならなかったのです。  ・・・・つづく

Re: 「マドモアゼル」 1967年11月号 - さくら

2009/07/01 (Wed) 00:18:12
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 昭和二十一年の暮れ、私はNHKの『のど自慢』に出演したことがあります。私が歌ったのは、当時、大ヒットしていた田端義夫さんの『大利根月夜』でした。
 ところが、失格の一つの鐘すら鳴らないのです。
「子どもが大人の歌をうたっては、審査の対象にならない」
「ゲテモノだ」といのです。
 あの時の屈辱は今も忘れません。町ではあんなにみんなが喜んでくれる私の歌が、」どうして無視されるのか、歌の心にはおとなも子どももないはずなのに・・・・子ども心にも怒りに似たものを感じて、強くくちびるをかんで、涙をこらえたのをおぼえています。
 しかし、それだけではなかったのです。それからも芸能界の壁は何度も私の前に立ちふさがろうとしたのです。理由は、子どもがおとなを真似て歌うのがいけない・・・・ただそれだけでした。
 しかし、こういうスタートは、私のためにはよかったのかもしれません。私は評論家とかジャーナリズムとかの権威をあまり信用しません。私が信じるのは、庶民大衆の感覚です。そう思うのも、私が子どものとき、すべての権威に拒まれながら、庶民、大衆によって歌手に育てられたという自覚があるからなのです。
 そういえば、こういう考え方には、多分に母の影響があるのかもしれません。
 私の家『魚増』では、月に一度原価サービスデーをもうけ、チンドン屋を呼んでにぎやかに宣伝していました。そのとき、母の書いたキャッチ・フレーズをおぼえています。
「それ出た、ほれ出た、生まれ出た。魚増魚屋生まれ出た。育てあげたはお客さま。いつもかわらぬごひいきを」というのです。
 このキャッチフレーズには、客を大切にする母の考えがよく出ています。そして『魚増』魚屋を美空ひばりに置き換えれば、そのまま私にも通用するのではないでしょうか。
 とにかく、私は歌いたかったのです。どんな所でも、歌っていれば私は満足でした。
 そして、二十二年の夏、漫談の井口静波さんと俗曲の音丸さんの一座に加わって、中国から四国への巡業に出かけたのでした。
 もっとも、出かけるまでが、たいへんでした。父が大反対だったのです。父はあくまでも素人芸として音楽を楽しむだけで、私をプロ歌手にするつもりはなかったのです。幼い私の歌への情熱が、父の気持ちからはみ出してしまったのでした。
 母が私の側に立ちました。どうしても私の願いをかなえさせてやるのだと、がんばりました。父から猛反対を受けても、母はひるみませんでした。
 どちらかといえば、家の中ではワンマンの父に自分を押し殺して従っていた母が、あんなに自分の意志を押し通したのは、はじめてのことです。
 母の強い主張に、父も、学校が休みの間だけ、という条件で折れざるを得ませんでした。  ・・・・・つづく

Re: 「マドモアゼル」 1967年11月号 - さくら

2009/07/01 (Wed) 22:00:37
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★幼い決意
 田舎町から田舎町へ、バスに揺られる巡業の旅は続きました。
 九月の上旬でした。私は母の手にすがりながら、窓の外を流れる高知県の海岸風景を、目で追っていました。
 立ちずくめで、足が痛くまわりは心細い見知らぬ土地、いくら歌いたくて加わった巡業でも、子ども心につらくてならず、ふと涙がにじんでくるのでした。
 バスはトンネルを出て、下り坂にさしかかっていました。間もなく大杉という駅に出るはずでした。
 そのときです。からだが宙にさらわれ、天と地がぐるりと回転したと思うと、何かに激しくたたきつけられ、私はそのまま暗い奈落の底に沈んでいきました。
 バスがトラックと衝突して、横転し、崖下に転落したのです。
 私は血だらけ。仮死状態で近くの民家に運ばれました。
 文字通り、九死に一生を得て、高知の病院で二週間ほど過ごし、横浜に帰ってきました。
 思えば、あのとき、私の人生のテーマはきまったような気がします。私は歌手になるために生まれてきたのだ、だから神様が助けてくれたのだ・・・・私は暗示にでもかかったように、そう思いこんだのです。
 しかし、横浜には父が心配顔で待っていました。そして「こんなことになるから、和枝には絶対歌わせない」というのです。
 母も、ショックで気弱くなっていました。歌手にすることを、あきらめかけてもいました。
 けれど、私は泣きじゃくって、歌は続けると主張しました。すると、母も元気を出して、私の味方になってくれます。
 とうとう、父は根負けしてしまいました。
 私の道がはっきりと決まったのは、あのときからでした。  

★母に守られ
 私の正式のデビューは二十三年五月一日、横浜国際劇場で、小唄勝太郎さんの前唄をうたったときです。
 場末の劇場や地方巡業だけで、芸能界への足がかりもつかめなかった私にとって、勝太郎さんの前座をつとめるというその舞台は、願ってもいないものでした。
 私は笠置シズ子さんの『セコハン娘』を歌いました。
 それがきっかけで、私はしばらく専属のような形で横浜国際劇場に出演し、その年の暮れ、浅草国際のテイチク祭りに、病気欠場の菊池章子さんの穴埋めに、飛び入りのように出演しました。それが、東京進出の第一歩といえるでしょう 
 道は開けはじめましたが、苦しい時代でした。  ・・・・・つづく

Re: 「マドモアゼル」 1967年11月号 - さくら

2009/07/03 (Fri) 01:21:41
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 今では十代の子どもがおとなの歌をいたっても、珍しくもありません。しかし、あのころは私がはじめてです。おとなの歌を器用に物真似する子どもとして、何かにつけ異端視されていました。
 しかし、私は単なる物真似では決してなかった、私なりの情感で歌っていた、と今でも確信しています。単なる物真似だったら、あんなに、ファンに支持されるはずもなかったし、それでなくとも異端視されていたのですから、すぐに出演の場所は閉ざされてしまったでしょう。大衆は私の歌にある私独特のものを、きちんと聞いていてくれたのです。
 私が主に笠置さんの持ち歌であるブギを歌っていたのも、他意はありません。私にはそのころ、自分の歌がなかったからなのです。そのブギも、今後ステージで歌ってはならないと、笠置さんから中止を申し込まれたりしました。
 人気絶頂の大歌手が、どうして私のような駈け出しの子どもをいじめなくてはならないのかと、母と手をとって、口惜し涙にくれたこともありました。
 しかし、私はただ、歌っていれば満足という子どもです。あそこでつぶれてしまわなかったのは、決して私の力ではありません。
 まず第一は、ファンです。歌は大衆に支持されなければはじまりません。そして、私には、私の歌をきちんと聞いてくださるファンがいたのでした。だからこそ、さまざまな圧力で閉ざされようとする出演の場も、開けていったのです。
 次は母の存在です。私は前座にすぎませんから、どこに行っても楽屋は大部屋です。あの大部屋には独特の雰囲気があります。行儀悪くねそべったり、ものを渡すにも、ポンと投げてやったり・・・・・・
 母はその雰囲気を嫌いました。あの雰囲気にそまったら、人間としてのけじめがなくなり、結局、一生を大部屋で過ごすことになる。というのが、母の考えでした。
 だから、母はどこの劇場でも私を大部屋に入れず、掃除用具置場や物置きに裸電球をつるし、小さな鏡をもちこんで、私をそこで過ごさせました。
「おタカクとまって、何も、楽屋があるのに、あんな物置きにいなくとも」
 そんな陰口をしょっちゅう浴びせられました。しかし、母は決して自分の方針を変えようとしませんでした。
 私がどんなに苦しくとも、人間としての大切なものをそこなわず、自分の歌に誇りをもってうたうことができたのも、母の深い配慮があったからだと、つくづく思います。

★母子の涙
 もう一人、忘れられないひとがいます。故人となられた川田晴久先生です。川田先生が私の才能を認めてくださったのは、横浜国際に出演したときです。先生はわざわざ楽屋をたずねてきて、励ましてくださったのでした。
 私の歌には先生はありません。すべて独学です。その私の歌を守り育ててくれたのは、ファンと母です。
 しかし、川田晴久先生だけは先生という文字をとって呼ぶことはできません。
 川田先生はそれからも、陰になり日なたになって、私を励まし、ひき立ててくださいました。先生の公演にはいつも加えてくださったし、映画『のど自慢狂時代』に初出演できたのも、先生の力添えがあったからです。
 あんなに異端視され、ことあるごとに芸能界の外にはじき出されようとしていた私。それを複雑な人間関係のうず巻く芸能界の中で正しく認めてくださった川田先生。本当に勇気あるひととは、川田先生のようなひとを言うのだと思います。  ・・・・・つづく

Re: 「マドモアゼル」 1967年11月号 - さくら

2009/07/03 (Fri) 23:39:18
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 次に出演した東横映画(現東映の前名)の『踊る龍宮城』で私は『河童ブギ』と『悲しき口笛』の二曲を歌いました。それが、最初の私の持ち歌でした。それをコロムビアでレコーディングしたときのうれしさ、母とスタジオの片隅で手をとって、泣いたのを忘れません。
 母と私の涙がまじりあって、私の小さな手を包む母の手を、ぐしょぐしょにぬらしました。ようやくここまできた・・・・そんな感慨が厚くからだの中をかけめぐっていました。
 昭和二十四年のことです。
 それがヒットし、翌年も『東京キッド』が大ヒット。そして、二十七年の『リンゴ追分』が出るにおよんで、歌謡界での私の地位も、どうにか確かなものになったのでした。

★小さな思い出
 私は寂しがり屋でした。
 歌っていれば、たしかに、幸福です。しかし、学校にはなかなかいけません、自然、友だちとも遠のきます。
 一方、仕事の世界はおとなばかり、私は孤独だったのです。その寂しさが、私をよけい母に傾けさせていったのでしょう。なにしろ、母だけが私に寄りそい、喜びも悲しみも共にしてくれるひとだったのですから。
 そんなに寂しくとも、歌をやめようとしなかったのは、やはり、それだけ歌の魅力が大きかったからなのでしょう。また、同年の友だちがいない寂しさも、母が埋め合わせていてくれたといえます。母はときには、子どもになって、私の相手をしてくれるのでした。
 私の学校の成績は、悪くはありませんでした。巡業中も家庭教師がついてきたし、母も時間があれば、楽屋の片隅ででも、勉強を教えてくれました。
 勉強をなおざりにしてはいけないと、その点、母はきびしかったのです。
 しかし、何分にも出席日数が足りません。滝頭小学校を卒業するときは、落第だということになりました。それを無理にお願いし、卒業式後に一週間授業を受け、その結果を試験してみて、もしよかったら卒業させようということになりました。
 子守りなどのために学校を長期欠席していたひとがいました。私はそのひとと二人で一週間の授業を受けました。試験は校長先生自らの口答試問に、私は全科目に九十点以上をとることができました。
 そのひとも、成績はよくありませんでしたが、卒業を認められ、モーニング姿の校長先生から卒業証書を渡されました。
 二人だけの卒業式・・・・私は同級生といっても思い出すひともいません。しかし、あのひとだけは、生活も違うし、親しくもなかったけれど、なつかしく暖かい感情が通っているような気がしてならないのです。  ・・・・・つづく

ひばり姫4回忌 - コマMail

2009/06/25 (Thu) 21:39:57
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ひばりちゃんの20年林檎麦の日は昨日でした。
ひばり姫千代ちゃんの命日も終わり、月日の経つのは早い物です。千代ちゃんの孫もお二人目が誕生で賑やかに成られました。天国でお喜びのことと存じます。

ひばりちゃん・千代ちゃんを偲んでいます。いろいろとありがとうございました。

Re: ひばり姫4回忌 - さくら

2009/06/26 (Fri) 11:42:09
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ひばり姫様がひばりさんの所へ行かれてから、もう丸三年になるのですね。烏兎怱怱ですね。
その間に、「ひばり館」は「美空ひばり座」へと立派に生まれ変わりました。以前の「ひばり館」のことをとても心配されていたので、ひと安心されていると思います。
嵐山へ行くとひばり姫様に初めてお会いした時の事が思い出されます。いつもパワフルなひばり姫様でした。

Re: ひばり姫4回忌 - ユリ

2009/06/26 (Fri) 18:36:02
*.home.ne.jp

毎日毎日 ひばりさんのお声を聞いて
元気にしています。
ひばり姫様の会の思い出は、今も手に取るように
私の大切なものです。
写真やCDがあります。もう3年になるんですね。
ひばり姫様 これからも見ていてくださいね。
遠くから いつも思っています。

「暮しの設計」 1972年4月号 - さくら

2009/06/21 (Sun) 23:53:41
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歌手 美空ひばりさん母堂=加藤喜美枝さん 『わが子を神と呼ぶ母』 ・・・三枝佐枝子

★ひばりには私が必要なんです
 世の中に評判の悪い母、悪口の対象になる母親は少なくないとはいっても、美空ひばりさんのお母さんの加藤喜美枝さんくらい悪評高い母はあるまい。曰く、ひばりのお母さんは十本の指全部に指輪をはめている。曰く、ひばりのおふくろは自分の娘のことをお嬢と呼び、ジャーナリストを土下座させる。曰く、ひばりのおふくろは魚屋のおかみさんのくせに、いちいち脚本に口出ししたり演出に文句を言ったりする・・・・・・等々。
 これらの評判はいったいどこから生まれたものなのか。はたしてこの噂はほんとうなのだろうか。加藤喜美枝さんにお会いすることになった時、私はまず、そのことを自分の目でたしかめたいと思った。
 私が加藤喜美枝さんをおたずねしたのは、東京都下青梅市の公会堂であった。この日、民音の主催で、ひばりのワンマン・ショウが行われている。東京では訪問客が多くてゆっくり話をする時間がないというので、青梅まで追って、舞台の合間をとらえて喜美枝さんのお話を伺うことにしたのである。
 青梅の公会堂に着いたのは午後の三時、昼の部のショウがまだつづいていたが、公会堂の入口のベンチには、もう夜の部を待つ人が十数人坐っていた。さすがにひばりさんの人気のおとろえないことを改めて感じさせられたものである。
 ショウが終るまでの間、私は舞台の下手前方の袖から舞台をのぞいていた。中央のマイクの前で、ひばりさんは次々にヒット曲を歌いつづけている。その歌はひとふしひとふし、真心をこめて聴衆に語りかけるように歌われている。自らも納得し、お客にも納得してもらうように、うなずきながら歌うひばり独特の歌い方は、客席から見た時より袖から見たほうがはるかに特色をもって私の目にうつった。
 ところが、自分の歌にひたり切っているように見えるひばりさんが、時々、チラッと舞台の下手奥の袖のほうをするどい目で見るのに私は気がついた。それは客に向ける顔とは似ても似つかない、きびしい一瞬のまなざしである。「何だろう」と私おは不思議に思った。  ・・・・・つづく

Re: 「暮しの設計」 1972年4月号 - さくら

2009/06/23 (Tue) 00:55:44
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 あとでお母さんの喜美枝さんに伺ってわかったことだが、ひばりさんは、何か気に入らないことがあると、舞台の袖でじっと見つめているお母さんにサインを送るのだそうである。それは一瞬のことであり、観客たちのまったく気づかぬ間のことであるが、喜美枝さんには、それが何のことかわかるのだそうである。ある時はマイクのボリュームをもう少しあげてとのサインであり、ある時は客席の子どもが泣いて歌いにくいとのことであり、ある時は照明がまぶしすぎるとのことであったりする。ひばりさんからサインをうけた喜美枝さんは、その意味をキャッチし、即座に指令を発して問題を解決し、ひばりさんが一番よいコンディションで歌うことができるようにするのだということである。
 だから喜美枝さんは、ひばりさんが舞台に出ている間は、必ず袖にいてそのサインをうけたり、大急ぎで衣装を着かえるのを手つだったり、その日のひばりさんの体の調子や感情の起伏を心にとめたりするのだそうである。「私がついていなければひばりは歌えないんですよ。ひばりが立って歌っている以上、私も袖に立ってひばりを見ている。何百回見ても何千回見ても私はあきるということがないんです。昨日の舞台なんか、私が夢に描いていたことをひばりが立派にやってくれたんで、涙が出て仕方がなかった。ひばりは本当に天才だと思いましたよ」
 手放しの絶賛がはじまったので私もつい、ぶしつけな質問を試みることにした。
「大変失礼ですけれど、世間一般のあなたの評判は大変悪いようですが、それはなぜだとお思いですか」
 この質問に対して喜美枝さんは、顔色ひとつ変えないでこう答えた。
「世界中の何百万の人が私の悪口を言っても、私は平気なんです。自分の肉親である子どもたちが、なくてはならないお母さんだといってくれれば、それで私は満足なんです。だから私にはこわいものがないんです。他人は何と言おうと“我信ず”ですからね」
 喜美枝さんはさらにつづけて、
「私は一切妥協ということをしないので誤解される場合が多いんですよ。それがひばりにとってよくないと思えば、相手が誰であろうと、私ははっきりお断わりするんです。新人なら下手でも許されるかもしれないけれど、ベテランにはそれは許されない。去年よりは今年、今年よりは来年と、進歩してゆかなければならないんです。だから妥協して自分の芸をおとすことはできないのです。劇場へ来て下さる方々は、疲れた心をひばりの歌でなぐさめられたい、仕合せを味わいたいと思って来て下さるのですから、その方々に十分に満足していただけるものを演じなければならないのです」  ・・・・・つづく

Re: 「暮しの設計」 1972年4月号 - さくら

2009/06/24 (Wed) 00:17:42
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★芸能人のプライド
 喜美枝さんは大正二年、東京山谷の石炭商の長女として生まれた。父親は「仏の又さん」とあだ名されたくらいお人よしだったので、商売のほうはうまくゆかない。長女の喜美枝さんは弟妹の世話を見ると同時に、家業の手伝いもして、石炭屋さん仲間では、「女親分」というあだ名をもらったほどだったとのことである。その頃の喜美枝さんの楽しみは、浅草六区へ出かけてゆき、エノケンのやっていた「カジノ・フォーリー」を見たり、田谷力三や藤原義江の浅草オペラを楽しんだりすることだった。映画も好きでよく観て、活弁の真似なども上手にしたとのことである。
 このように若い日の喜美枝さんは、演芸の世界に魅力を感じ、自分では何もできないながらも、見巧者になり、大きな夢を心の中にふくらませていた。父のすすめで横浜で魚屋さんをやっている加藤増吉さんと結婚して、持ち前の負けん気から家業に精を出していたが、喜美枝さんの心の中には、好きな芸能の世界への夢が忘れられなかったようである。娘のひばりが音楽が好きで、レコードに合わせて大人の歌を上手に歌うようになってからは、この娘を中心に楽団を作って地方を興業することを思いついたのであった。しかし、無名の、何のバックもない母子が、きびしい芸能界に入ってゆくということは、想像以上に大変なことだった。しかし喜美枝さんはそれをやり通したのである。
 私は今でもはっきりとその夜のことを覚えているが、昭和二十四年の一月、偶然に観に行った日劇で、美空ひばりという一少女の初舞台を見たのである。当時はブギの女王笠置シヅ子の全盛時代だったが、このおどとくべき少女は“東京ブギ”を堂々と歌って満員の日劇の観衆をすっかり魅了してしまったのだった。この日劇出演の成功が、彼女の人気を決定的なものにした。
 喜美枝さんの話によると、彼女は芸能の世界に生きていても、カタギの精神を捨てずに、いやな仕事をするくらいなら、すぐにでもやめる覚悟をいつも持っていたとのことである。菊田一夫作氏作のミュージカル『津軽めらしこ』の主役をおりた時も、それがどんなにきびしいはね返りを受けることであっても、ひばりにそれを演じさせることができなかったからだとのことであった。この時は芸能界で生きられなくなるかもしれないことを覚悟し、母子で真剣にこれからの生きる道について話しあったとのことであった。  ・・・・・つづく

Re: 「暮しの設計」 1972年4月号 - さくら

2009/06/25 (Thu) 10:11:22
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★一卵性母子と言われて・・・・・・
 喜美枝さんはプライドを失った芸能人ほどあわれなものはないと思うので、プライドを守るためにはあくまでも自己主張する。たとえば喜美枝さんは地方公演の時、学校へ行けないひばりさんのために家庭教師をつれてゆくことを条件にした。また、宿は相部屋を断った。それは、芸能人のふしだらな生活に娘をなじませまいとした母の思いやりからであった。またプログラムやポスターなどの名まえの大きさや順序に注文をつけた。これらのことは喜美枝さんに言わせれば芸能人のプライドを守るための当然のことになるわけだが、魚屋のかみさんのくせに何を生意気なということになりかねなかったであろう。
 喜美枝さんはまた、ひばりの才能を一番よく知っており、それを生かすことができるのは自分のほかにないという強い信念を持っていた。だから原作から脚本まで、彼女はすべて口出しをしている。一流の人ほど、彼女の考えに賛成してくれるのだとも言っている。そのことが時には相手のプライドを傷つけることもあるだろうとは、喜美枝さんは考えない。自分が良い意見を出してよりよい脚本にし、よりよい演出にかえて成功すれば、それが一番よいことだと信じているのである。誇高い男性たちが、この母の態度を必ずしも快くうけ入れなかったことも、私にはわかるような気がするのである。
 喜美枝さんはひばりさんと一緒に祇園や先斗町で芸者をあげることもある。ひばりさんの演技に役立てるためである。こまかい小道具などもよく見ておいて本番の時に役立たせる。だから映画やテレビでいい加減な小道具や衣裳を使う無神経さには我慢がならないとのことである。
 これらの話を聞きながら私は、喜美枝さんの強い信念に圧倒される思いであった。人間誰しも迷いがあり悩みがあるはずなのに、この母にはそれが少しもないという。彼女を支えているその力は何なのだろうと思った。あるいは何か信心をしているとか、強力な相談相手がいるのではないかとも考えた。しかし、喜美枝さんの答えはすべて「ノー」である。彼女は神信心はしないという。「私の神様は心の中にあります。私の神様はお嬢なんです」と家の巨はためらうことなく言い切るのだった。
 しかし、このように強い地震に支えられてきた彼女にも、さまざまな試練がなかったわけではない。ひばりさんが十五歳くらいになって、子どもでもなく大人でもない中途半端なむずかしい年齢に入った時がそれである。このむずかしい時期をどう乗り切るか。喜美枝さんは苦しみ考えた末、ひばりさんを男装させることによって危機を救っている。鞍馬天狗の杉作や若衆役などがそれである。
 次に、母親のとこ場に何一つさからったことのないひばりさんが、小林旭さんと結婚したいと言い出した時も、喜美枝さんにとっては大きな危機だったと思う。結婚を決意したひばりさんは、仕事をやめたいとさえ思ったとのことである。しかし、結局、彼女は夫よりも仕事を選び、母を選ぶ結果となった。ひばり母子は一卵性母子だから離れられないのだという噂が高まったのも、この頃からだったろう。
 一卵性母子という言葉は、私から見れば揶揄的な意味をふくんだものである。しかし喜美枝さんもひばりさんもそうは感じないらしく、自分たちも平気でその言葉を使っている。「私たちにあびせられた悪口の中では一番好きな言葉」と喜美枝さんは言うのである。  ・・・・・つづく

Re: 「暮しの設計」 1972年4月号 - さくら

2009/06/26 (Fri) 11:18:08
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★ひばりが健康である限り
 妻としての喜美枝さんは決して仕合わせな妻ではなかったらしい。夫の増吉さんには次々に愛人がいたとのことである。増吉さんもまた淋しい人だったのだろう。一方、ひばりさんの二人の弟たちについても、いろいろなことが起った。それは母や姉の心を悩ましたことだろうと思うが、喜美枝さんは、あれはひばりがあまりにも有名だったので問題になっただけだと、事もなげに言い切っておられた。現在四人の姉弟が仲よく無事でいれば、誰が何を言おうと喜美枝さんは意に介さないようであった。
 さっきから部屋の外が何となくざわついて来た。夜の部の開演も間近いのだろう。最後に私は喜美枝さんに「美空ひばりもそろそろ限界だという噂を時々耳にしますが、お母さんはどうお考えですか」とたずねてみた。「ひばりには絶対に限界はありません。彼女が健康であるかぎり、限界などということは考えられません。これからのひばりの芸は上にあがろうとはしませんが、横へ横へとひろがってゆくでしょう。私は山はきらい。なぜかというと山が高ければ雲にかくれるからです。海は好きです。海はどこまでもひろがって空へつづくからです。ひばりのこれからの仕事も、海のようにひろびろとひろがって空につづいてゆくようにしたいと思います」
 開演五分前のベルが鳴った。喜美枝さんは忙しそうに立ちあがった。その浅黒い顔には投資があふれ、その筋ばった指には芸能生活二十年記念に娘に買ってもらったという五カラットの超大粒ダイヤが燦然とかがやいていた。  ・・・・・おわり

「週刊平凡」 1967. 1.19 - さくら

2009/06/17 (Wed) 00:21:20
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おしゃべりジャーナル『母と娘の歌って踊って20年』  ゲスト:美空ひばり・加藤喜美枝   ききて:宮田輝

《いつもながら、お嬢と親ひばりに会うのは、たのしい。さすがはひばり、と思わせるはなしが、ポンポン、飛びだす。
“お嬢あるところママあり”で二十年。この母娘(おやこ)、仕事のうえでのすばらしいコンビでもある。が、ママは「わたしはひばりの大ファン」といっていた。≫ (宮田輝)

★吹き込んだ曲は約八百
宮田  =ことしは飲むほうは、やめたそうですね。
ひばり =まあ、ちょっと肝臓が悪くて。
喜美枝 =胃のほうもすこし・・・・。でも、ついこのあいだから、また、はじめてるんですよ。(ひばりの顔をみて)
宮田  =両方悪くちゃあ、イカンゾーだ。(笑)
ひばり =先生(宮田さんをさして)に、そういうシャレいわれるとは思わなかったア。(笑)
宮田  =(しみじみ、ひばりをながめて)また一段とお美しくなられましたな。
ひばり =きょうは宮田さんとお会いするから、とくに・・・・。(笑)美貌はすでに落ちています。(笑
)
宮田  = ところで、お嬢(ひばりのこと)も、うたいつづけて二十年、いままでに南極ぐらい吹き込んだの。
喜美枝 =八百いくつか、まだ、千曲にはみたいですね。
ひばり =さいしょにレコードに入れたのが、たしか(考え込んで)『悲しき口笛』。さいきんのでは、メイコさん(中村メイコ)夫妻の『喜びの日の涙』ってのをうたいました。
宮田  =八百の歌、ぜんぶおぼえてる。
ひばり =それが、自分で忘れてる歌、たくさんありますね。節なんか忘れてるのがある。(笑)
喜美枝 =ファンのかたが、逆に、「こんな歌があった」と教えてくださる。(笑)
宮田  =まあ、なにしろ八百ですからねエ。あの、お母さん、いちばんさいしょ、お嬢を世間にだされたのは。
喜美枝 =九つ。横浜国際劇場のステージです。
ひばり =だんだん年がばれてきた。(笑)九つで、二十年ですからね、先生。
宮田  =二十年の年輪ですよ。お母さんには、芸能界に娘をだした以上は・・・・っていう気持ちが当然あったでしょうね。
喜美枝 =それが、いま考えてみると、おかしいんですよ。お嬢がでたとき、全盛だったのは笠置シヅ子さん。でも、ああなれたらな、とは思わなかった。子の子には先生っていないし、ただ、歌が好きで好きでたまらなくて、うたってるだけでしたから・・・・。はじめて映画で『悲しき口笛』の主演が決ったときは、そう、夢のようでした。だれに感謝したらいいかわからなかったですよ。 ・・・・・つづく 

Re: 「週刊平凡」 1967. 1.19 - さくら

2009/06/17 (Wed) 23:03:24
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★ジャズがうたいたかった
宮田  =それからずっと、こんにちまでお母さんはお嬢とともに生きる。
喜美枝 =(ニッコリ笑って)別居したのは二十九年のあいだに十一か月。(ひばりが小林旭と結婚生活を営んだ期間)この、離れて暮らした十一か月が、いちばん長かったですね。
宮田  =いちばんはじめの『悲しき口笛』、おぼえてますか。
ひばり =「映画に出られる、ああ、うれしい」なんて喜ばなかったですね。はじめ、セリフがないんです。監督さんに、「あたし、オシじゃないんだから、セリフつけてください」なんていったら、齊藤寅次郎さん(監督)が、「おまえのこまるようなセリフ、つけてやるから」なんて、いわれたのをおぼえている。(笑)
宮田  =二番目はなんですか。
ひばり =はっきりおぼえてないけど(喜美枝さんに)たしか『東京キッド』ね。
喜美枝 =そう。それから『越後獅子の歌』。
宮田  =あの『リンゴ追分』、あれはいつきいてもいいね。それから向こうの歌もうたいましたね。
ひばり =あたし、昔からジャズは大好きだったんです。あとでチエミちゃん(江利チエミ)とかいづみちゃん(雪村いづみ)がでてきたから、あたしが歌謡曲にいったのはよかったんですけど、じつは、ジャズをうたうつもりだったの。
宮田  =それから三人娘の時代になって・・・・と。ところで、この二十年、長かったですか、短かったですか。
ひばり =そうね、(しばらくして)これからのほうが長いんじゃないかしら・・・・。いままでは、ママがカバーしてくれたから、苦労がなかった。だから、短く感じたけど、これからはいろんなことにぶつかると思うんです。それで、あたし、長く感じるんじゃないかなと思うの。

★死にたいときも
宮田  =いままで、いろんな苦労をお母さんが背負われてきた。いろいろ事件もありましたね。
喜美枝 =なにか大きな事件があると、そのあとグーンとまた成長するんですね、うちのお嬢は。まだ下積みで、“美空和枝”っていってたころ、日本一大きな夫婦杉のある大杉村(高知県)ってところで、巡業中大ケガしましてね。一か月もお岩さんみたいになって、あのころはウクレレひいてうたってたんですけど、左手首をざっくり切って、ひけなくなるという悩みとショックで・・・・。
宮田  =そのころ、どんな歌うたってたんですか。
ひばり =『小雨の丘』とか、まだ自分の歌なんかなかったころです。(笑)
喜美枝 =自分は生きかえったんだから、日本一大きな杉の木のところへ連れてってくれってきかないんですよ。何十段もある石段のぼって神社へお参りして、大杉の杉さんに負けないように日本一になるって誓ったんですよ。父親は生きかえったんだから、もうそんな仕事はやめろというし、この人は、生きかえったんだから、これからやるんだっていうし、それで一か月休んだだけで、また、いっしょうけんめいやりました。それで横浜国際で見いだされ、それから浅草国際でしょう。それを齊藤寅次郎先生がごらんになって『悲しき口笛』につかってくださって、それから天下をとれたわけですよ。  ・・・・・つづく

Re: 「週刊平凡」 1967. 1.19 - さくら

2009/06/19 (Fri) 00:04:19
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宮田  =そして天下の美空ひばりになってから、あの事件でしたね。
喜美枝 =塩酸事件(昭和三十二年一月、浅草国際劇場正月公演で、一少女から塩酸をかけられた)ですよね。やっぱり死ぬような苦しみでした。包帯の下から皮がむけて・・・・。お嬢が死のうとしてるとこ、見たもんで、夜はぜったいひとりにしなかったですよ。
ひばり =夜、みんなに寝られちゃうとこわいんですよ。眼をつぶると、かけられた場面思い出しちゃって、ノイローゼになってたんです。顔見せてくれないし・・・・、よくなってるっていうんだから、見せてくれてもいいと思うのに・・・・。皮がむけてきはじめると、うれしくてどんどんむいちゃって、むりしてむいたのがいけなかったんですね。あと、アザが長いこと残りました。
喜美枝 =あのとき、長谷川一夫先生が激励に電話かけてくださって・・・・、母娘で泣いたね。(ひばりのほうに向って)あのあと北野劇場でやったのがたいへんな人気で、そのあとまたぐんぐんのした。それから結婚でしょう。そして離婚。
宮田  =三つ目の事件、っていっていいのか、話題でしたね。
喜美枝 =新宿コマ劇場は連日満員でしたし、劇場側は発表しないほうがいいっていうんですけど、この人は「どうしても舞台の上で発表したい」って。もし発表して、その翌日からピタッとお客さまがこなくなったら、そのときはお母さんと第二の人生を始めましょうっていいまして、休けい時間に発表したんです。
  ・・・・・つづく

Re: 「週刊平凡」 1967. 1.19 - さくら

2009/06/19 (Fri) 00:34:20
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ひばり =舞台人は舞台でしねれば本望だっていいますよね。おまえはバカだっていわれても、それを舞台の上でかみしめたいって気持ちが、みなさんの前で離婚の報告をいわせたんです。楽の日は涙ポロポロ流しちゃって・・・・、『女の花道』って芝居のなかで、「これからは芸一筋に生きていく」っていうセリフがあるんです。そこでパッチリ拍手がきちゃって、あたし、泣いちゃった。
喜美枝 =そのあとも、またいい舞台をつとめることができましたし・・・・。
宮田  =お嬢は、しょっちゅう勝負をいどんでるみたいね。ころんでもタダで起きない人だ。(笑)  ・・・・・つづく

Re: 「週刊平凡」 1967. 1.19 - さくら

2009/06/19 (Fri) 23:10:06
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★譜面は読めない
喜美枝 =ひとの味わえない人生を歩いてきました。そのたびに、人間としてひとまわりずつ大きくなってきましたね。
宮田  =やっぱりお母さんの子です。(笑)
ひばり =すなおに育ったのは、お母さんのおかげよね。女の子が早くから芸能界にはいると、ヘンなふうになるもんですよ。そうならなかったのは、お母さんのおかげ。
宮田  =何度も九死に一生を得てるわけだけど、神信心なさる。
喜美枝 =うちには神さまがないんですよ。神様は心のなかにあるものだって、いってきかせてあるんです。
ひばり =あたしの四国でのケガで、手に傷のあること、意外にみんな知らないですね。踊るとき左の小指が離れちゃうんで、いつも気をつかってるんです。
宮田  =お嬢は、ずいぶん子供のころからおとなみたいなところがあったみたいだけど、四つとか五つのころは、どうだったんですか。
喜美枝 =四人の子供のなかでは、いちばん夫婦のあいだで話題になることの多い子でしたね。おっかなくなっちゃうくらい、なんでもよくおぼえて、りこうな子でした。
宮田  =当然、歌も・・・・・・。
喜美枝 =すごく足のおそい子で、お誕生がきても歩けなくて、ひざにのせて本読んでやると、何十冊でも暗唱しちゃうんです。四つか五つのとき、百人一首を八十いくつおぼえましたね。お父さんが好きで、店の若い衆に教えてるのをおぼえちゃったんです。
宮田  =じゃあ、いまも強いですね。
ひばり =それが、ぜんぜんやらないから、もう忘れちゃった。(笑)
喜美枝 =この子は、耳からおぼえるんですね。
ひばり =はずかしいけど、いまでもあたしは譜面が読めないんです。米山先生(作曲家の米山正夫氏)は信用しないんですよ。佐多らしい曲ができてきて譜面渡されても、藤山さん(藤山一郎)みたいに、フフフン(節をつけて)っていえないんです。(笑)だからピアノについてって途中でむりな音があると、自分でだして、いい音にうたっちゃう。そうすると先生が、そのほうがいいなんて・・・・。(笑)
宮田  =そういえば、お嬢の歌は耳からはいってすぐおぼえられるもんね。(笑)あの、ファンというか、ごひいきも長いでしょうね。
ひばり =あたしとおない年の人たちも、もうお母さんですもの。親子三代のファンっていうのもある。このごろ、客席がじみなんです。いちじは、若い人たちのキャーキャーワーワーがなくなって、ショックだったこともありました。  ・・・・・つづく

Re: 「週刊平凡」 1967. 1.19 - さくら

2009/06/20 (Sat) 23:08:03
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★もうひとりの“ひばり”
宮田  =いや、あなたのファンは層がたいへんにあついね。
ひばり =このごろ、うれしいのは男性ファンのかたも応援してくれるようになってうれしい、なんて舞台でいうと、「オレだって好きなんだぞう」なんて声がかかるんです。(笑)ついうれしくなって、
「そんなにあたしが好きなら、楽屋へきて」なんてうっかりいったら、三日つづけて電話があって、じつは舞台でいわれたボクなんだけどなんて・・・・きた。
宮田  =説得力がありすぎた。(笑)
ひばり =いま、あたし、おしゃべりってたいせつなことだと痛感してるんです。自分の意見をいうことがいかにたいせつで、むずかしいかって。その点、先生、尊敬しちゃうわ。あたしは無口なんですよ。ちいさいころ、よく新聞記者になにか聞かれても応えられなかったの。それでか、ひばりはお高いとか、女王だとかいわれたけれど、いま考えれば、はっきりしゃべるべきなのね。子供だからっていう理由は通らない世界ですものね。
宮田  =そこをお母さんがカバーしてこられたわけだ。
ひばり =子供のおしゃべりって、あたし、大きらいなの。子供のファンでも「あたし、ひばりちゃんのファンよ」なんていう子よりは、お母さんの陰にかくれてなんにもいえない子のほうが好きね。
宮田  =それにしてもこの二十年、お母さんの陰の苦労は、たいへんでしたね。
喜美枝 =“ひばりの親はうるさい“とかなんとか誤解されてきました。どこの舞台でも、お嬢の舞台は毎日見てきましたね。それも舞台のソデじゃなくて、全体が見える室を特別に借りて・・・・。その部屋にすわって見てると、ファンの笑い声や泣き声やしゃべる声が、みんな、あたしの耳にはいる。それを、お嬢に報告して、ひとつひとつ、いい舞台にするんです。だから二十年、だれになんといわれようとやってきたんです。
ひばり =ママはあたしの大プロデューサー兼大マネジャー。それに、大ファン。いや、先生、ママはもうひとりの美空ひばりさんなのよ。
宮田  =それなら、ひとつ、ことしあたり、デュエットでうたったら・・・・。
ひばり =そうね。でも、きょうはそっちの(喜美枝さんのほうをさして)美空ひばりさんのほうが、よく話してくれました。(笑)
喜美枝 =・・・・。(ニコニコ笑う)  ・・・・・おわり

【となりで失礼】
 ライトブルーの綸子の無地のキモノ、黒地にブルーの、もみじをしぼり染めした羽織を着て、ひばりサンは現われた・・・・もちろん、おとなりにはお母さんがついている。
 開場は掘りゴタツのある和室。足がグッと下にのばせるコタツだ。ところが、ひばりサン、とうとう二時間半の対談中、正座しっぱなしである。ひばりサン親子が正座なら、こっちもアグラはかけない。記者、カメラマンともども、なれぬかっこうで正座だ。シビレてくる。ここがガマンのしどころだ・・・・・・。
 ところが、帰りぎわ、ひばえいサンはこうつぶやいた・・・・・・「あら、あのコタツ、足がだせたの? だせばよかった」(担当記者)

昭和43年「明治座11月特別公演」パンフ - さくら

2009/06/11 (Thu) 02:02:13
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『人に歴史あり』紙上公開 〜芸道ひとすじ 美空ひばり〜

  ≪暗い中に一条の光がさす。 浮び上がる美空ひばり・・・・、この番組のテーマが聞こえてくる。≫

 人の世の潮騒の中に生れ  去りゆく時の流れも消し得ぬ  一筋の足跡がある。

  ≪司会の八木治郎アナウンサー登場  ライトに照らされた美空ひばり、バックの黒に白地の着物がくっきりと浮び上って美しい・・・・。≫

八木= 下町の片隅に生れた一人の少女が、ある日、歌いはじめた。晴れた朝も嵐の夜も、少女は精一杯うたい続けた。
    そして、いつからか、歌うことが生きるということになった。
    ご紹介いたしましょう。その人は美空ひばりさんです。

  ≪スタジオの中が、明るくなる。  円形の椅子に並んで腰かけているゲスト、右より川口松太郎(作家・芸術院会員) 田中角栄(政治家・衆議院議員) 古賀政男(作曲家) ファイティング・原田(ボクサー・元世界チャンピオン)の各氏。  
いずれも、有名な方ばかり・・・・、  美空ひばり登場、中央の席につく。≫

八木= 田中角栄さんとひばりさんが親しいお知り合いだとは知らなかったんですけど、どういうことで。
田中= 私ども、総調和運動というものをやっております。その運動に、一度美空君に参加してもらった事があるんです。それがお付合いの始まりです。
八木= 田中さんは、歌手美空ひばりをどうお思いですか。
田中= まあ、天才という言葉がぴったりする人でしょうな。
    少し前の話ですが、ある時、機会があって、美空君と食事をしました。私は、少し酒を飲んだものですから、この歌の天才の前で都都逸などをやりまして。あとで他の者にひやかされましたよ。
    
    (笑い)
 
八木= 川口さんとひばりさんは。
ひばり=お芝居の世界では、すごくこわい先生で、でも私は大変可愛がって頂いています。パパなんて呼ばせて頂いています。
八木= その川口さんとは。
ひばり=私が、結婚生活に失敗しました後、初めて、お芝居の公演をいたしました。その時、よい台本がなくて困ってしまったのです。ママが川口先生をおたずねして、是非、私のために本を書いて下さいとお頼みしたのです。
    その時、先生が気持ちよく書いて下さったのが「女の花道」というお芝居で、自分で云うのもなんですが大変評判になりました。それから、もう、川口先生には甘えさせて頂いております。
八木= 川口さん、お仕事の上の娘だとも云えるひばりさんをどう思いますか。
川口= まあ、逢えば小言ばかりいっている。でも、これはひばりが才能があるから云うのですよ、ひばりは歌は天才だし、二十年間歌の方では女王様だった。だが、芝居の方は、まだだ。と云うのは歌は、一人でも歌える。歌う者がうまくゆけば八〇パーセントから九十五パーセントうまくゆくが、芝居の方は、いくら主役のひばりがよくても、まわりの役者が良くなければ芝居にならない。この人は歌をやってきた。今まで、一人でやって来たから、誰れも、自分と同じようにやれると考えてしまう。そして、芸の事となると夢中になって他人の事を考えなくなってしまう。それで、この人は損をしている。芝居は沢山の人の協力で出来上るものだ。根が利口な人だから最近は大分芝居が分かって来た。小言を云うことも少なくなりました。
    近頃では反対に、こっちが云われることが多くなった。

   (笑い)  ・・・・・つづく     

  

Re: 昭和43年「明治座11月特別公演」パンフ - さくら

2009/06/12 (Fri) 01:33:31
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八木= 古賀政男さんは、ひばりさんとのお付合いは、お仕事が同じということで。
古賀= 私は、ひばりちゃんのデビューの時審査したんです。
八木= そうですか。ひばりさん、その時のこと覚えてますか。
ひばり=ええそれは勿論、覚えてます。
八木= それで、音楽家の目から見た美空ひばりは如何ですか。
古賀= この人のいい所は、歌を最初にぴしっと覚えて、その歌をくずさないことですね。
八木= というと。
古賀= 始めは、どの歌い手さんでも正確にキチンと覚えるんです。でも、すこしたつと、それをくずしてゆくんです。これは、トップ級の人でも、そういう人はおります。いや、いつまでも、正確に丁寧に歌う人は少ない。ひばりちゃんの歌は、それがない。いつでも正確で丁寧に、そして、しっかりと歌う。それがひばりちゃんのいい所です。
八木= それは、ひばりさんの性格ですか。
古賀= それもあるけど・・・・、自分の歌にきびしいのですよ。この人は・・・・。

  ≪・・・古賀政男先生の言葉にちょっときびしくなったひばりちゃんの顔・・・≫

八木= ファイティング・原田さんというのもちょっと意外なお友達なんですけど。
ひばり=もう、古くからのお友達なんですよ、弟に連れられて家に来たのが始まりで、お知り合いになったのです。
八木= 原田さんの美空ひばり観は?
原田= 尊敬しています。
八木= それは・・・・
原田= プロ精神というか、プロの根性というか。そういうものは拳闘でも歌の世界でも同じだと思うのです。
    僕は、美空さんのプロとしての心構えに、いつも教えられてます。
八木= そうですね。
原田= それに、長い間、王座を保持するというのは、大変な努力ですよ。僕にはよく分るんです、美空さんのかくれた努力がなみ大抵のことでないということが分かります。
    尊敬してます・・・・。

  ≪世界チャンピオンだった原田選手、そして、又世界を狙う原田選手の言葉には、プロの意識というものの実感がこもってます。≫

八木= 川口さん。ひばりさんのこととなると、お母さんの喜美枝さんの話をかかせないのですが、
    よき母、よき相談相手、よき指導者としてのお母さんのことを・・・・
川口= まあ、宿命だね。ひばりとお母さんのことは・・・・、
    本当のこと云うと、母親が、そういうことにタッチするのは一般的に云って、あまりよくない。
    スターというものには陰の役者が必要なんだ。だから、いい役者には、かならず陰でしっかりしているものがいるし、いた。
    それが、ひばりの場合、自分の母親だったということなんだ。宿命だね。又、この人のママは、よくやっている。こんなに、この人に尽している人は他にないよ。本当に、芸のこととなると一生懸命だ。そして、大変な演出家だし、マネジャーだよ。
    こんな、よい陰の役者が、母親だとは、宿命だね。

  ≪芸界の裏表を知りつくしている川口松太郎先生のお話しに、ちょっとお母さんのことを思い出したひばりさん、遠くを見るような眼、お母さんのこと想われているのでしょうか。≫  ・・・・・つづく

Re: 昭和43年「明治座11月特別公演」パンフ - さくら

2009/06/13 (Sat) 14:36:22
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八木= ひばりさんは、お母さんのことは・・・・
ひばり=母がいなかったら、今の私はないと思ってます。
    (ちょっと考えて)
    お芝居していても、ママが見ていてくれるから舞台に出られるので、ママがいなかったら、どうなるか分かりません。
八木= 川口さんは、ひばりさんとお母さんの間を、これは芸界のことの世についてですが(?)、宿命と云っておられるが、そう思われますか。
ひばり=はい!

  ≪ひばりちゃんの赤ちゃんの頃の写真がうつる・・・・可愛いい女の子≫

 美空ひばり、本名加藤和枝、昭和12年5月、横浜市磯子区に生れる。
 家業は魚屋。屋号を「魚増」といい、「屋根なし市場」と屋バレルマーケットにあった。
 ギターを趣味とし、俗曲を好む父増吉と、なりふり構わず家業と育児に励む母喜美枝に見守られて、のびのびと成長した。そして、その下町の素朴なあけっぴろげな庶民の世界が後に大衆の心をうたう大衆の歌い手となるべく、美空ひばりの心をはぐくんでいった。
 昭和19年、滝頭小学校入学。
 やがて敗戦。外地から復員した父増吉の音頭で、近所の若者達が集まって美空楽団が結成され、その素人楽団の豆スター歌手、ひばりの歌ごえは焼野原と化した街角にこだました。昭和20年、ひばりが八才の秋であった。

  ≪ひばりちゃんと司会の八木アナウンサーが登場。≫

八木= さて、ひばりさん。この方たちは、もうよくご存知でしょう。
    ・・・・さあ、どうぞこちらへ、どうぞ・・・・。

  ≪二十数年前の美空楽団の人たち登場。≫

ひばり=まあ、
酒匂
笠井}=しばらくでした。
八橋
ひばり=御無沙汰してました。
八木= ひばりさん、お分かりになりますか。
ひばり=はい、すぐ分りました。忘れようたって忘れられない方々です。
八木= ・・・・終戦直後、ひばりさんと共に演奏して来た美空楽団の方々です。
    ひばりさん、はじめて舞台に立ったのを覚えていますか。
ひばり=たしか、埼玉の・・・・
八木= そうですか酒匂さん。
酒匂= はい、埼玉県です。
ひばり=お風呂屋さんみたいな所です。
八木= お風呂屋さん?
笠井= そうなんです。映画館や劇場は皆焼けてしまいましたので・・・・。
八木= 戦災で焼けてしまって・・・・
八橋= そうなんです。脱衣所が客席。湯舟の上を舞台にしましてね。
八木= あの湯舟にふたをして・・・・
ひばり=そうなんです。お風呂で歌ったんです。
八木= 終戦直後のどこもかしこも焼の原だったんですからね。今となっては、なつかしい思い出ですね。
    それから、磯子のアテネ劇場で旗上げして、ほうぼう廻られましたか。
ひばり=えゝ、千葉、埼玉。関東はだいたい廻りましたね?
酒匂= えゝ、中国から四国の方まで行きました。
八木= そこで大変なことが起った訳ですね。さっどうぞこちらへ・・・・

  ≪四国高知県大杉の坂本さんと猪野さんが入って来る≫  ・・・・・つづく

Re: 昭和43年「明治座11月特別公演」パンフ - 玉織姫

2009/06/14 (Sun) 12:06:39
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いつも読んでます。
 この番組のテープとくらべると、少々編集されているようです。美空樂団の初舞台については重大な違いがありますので、投稿しました。
 ひばりさんの初舞台はどこか調べているうちに、お風呂屋さんの場所はどこだったのか気になってました。
酒匂さんの記憶では、美空楽団の初舞台は、埼玉が最初で、お風呂屋さんはそのあとで、場所は上大岡だそうです。
 紙上公開では、何故かここのところ一緒にして埼玉のお風呂屋さんが初舞台で、ひばりさんの発言のようになってますね。埼玉のことは酒匂さんの発言で、ひばりさんはお風呂屋さんことしか発言していません。
プロフィールでは、お風呂屋さんでの興行が最初のようになってますので、変えたのでしょうか

調べていくと、町内とか、近くの神社とかでも歌ったという記録もあり、何を初舞台とするか決めるのも難しい問題ではありますが・・・

 テープでは聞き取りにくいところもあり、この記事はとても参考になりました。

Re: 昭和43年「明治座11月特別公演」パンフ - さくら

2009/06/14 (Sun) 17:07:59
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「映画館や劇場は皆焼けてしまいましたので・・・。」という発言があるように、私たちが思っている以上に、当時はあちこちでお風呂屋さんが舞台に変身していたのかもしれませんし!? この番組も美空楽団結成から二十数年経っていることを考えると、人の記憶がどこまで正確か、楽団の団員個人がどの舞台を初舞台と認識しているかにもよると思うので、何か実証するものがないと難しい問題ですね。
 でも、埼玉県ということについては、ひばりさんも酒匂さんも同じですね。

Re: 昭和43年「明治座11月特別公演」パンフ - さくら

2009/06/14 (Sun) 22:54:15
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八木= お分かりでしょう、ひばりさん。
    昭和22年4月28日、高知県大杉で起きたバス転落事故の時、怪我をされたひばりさんが運びこまれたお宅、坂本さんと猪野秀喜さんです。
 
 ≪ニッコリ笑って挨拶するひばりちゃん。21年前お世話になった方への感謝の気持ちがこもってます。≫

八木= バスの転落で、どんな大怪我したのですか。
坂本= 私の家の近くで事故がありまして、小さい女の子が大怪我をしたというのですぐ家に運びこみました。
    たしか、腕が折れて・・・・
猪野= ここに、その時の診断書を持って参りました。

 ≪古びた診断書が出される。
  それを見るひばりちゃんと八木アナウンサー≫

八木= 腕を骨折と左胸の・・・・・・
    大変な、重傷だったんですね。
ひばり=えゝ。
八木= そして、ひばりちゃんは。
ひばり=体のよくなるまで、大杉にいました。大杉というのは大きな杉のあるお宮からとった地名なんです。
八木= はあ。
ひばり=そこには、すばらしく大きな杉のあるお宮があるんです。その大きな杉に私はお願いしたのです。
八木= 体を直して下さいと。
ひばり=はい、それと、日本一の歌手にして下さいと・・・・
八木= 日本一の歌手、自信ありましたか。
ひばり=はい、ありました。
八木= 如何ですか、願いは達せられましたか。
ひばり=この間、お礼参りに大杉に行って来ました。
八木= では、達せられた?
ひばり=はい。
八木= 当時、ひばりさんは九才の少女。その時から「自分は歌い手になるために生まれてきたんだ。だから神様が生命を救ってくれたんだ。」という美空ひばりの人生のテーマが出来上ったのです。

 ≪カメラは、美しいひばりちゃんの横顔をとらえる。
  歌が聞こえてくる。初期のヒット曲「悲しき口笛」≫

 この死線をさまよう大事故を契機に美空ひばりの生きる道がはっきりと決まった。
 「歌うことが、生きることだ」と
 翌昭和23年五月、小唄勝太郎の前唄をつとめて、横浜国際劇場でデビュー。ここで故川田晴久に見出される。小学四年生の時であった。
 やがて、浅草の国際劇場から日劇へと活躍の舞台がひろがっていく。イモを洗うような殺人電車にもまれて有楽町へ通ううち認められて、はじめてレコードを吹きこむことになった。 

 ≪音楽「悲しき口笛」が高く、≫

 恋の街角、路地の細道・・・・ひばりのうたう歌はヒットした。
 新しいスターの誕生。
 続いて、「東京キッド」「越後獅子の唄」「私は街の子」とヒットを続け。
 「リンゴ追分」は戦后最高のヒットとなった。
 日本人の心の歌い手、美空ひばりの才能は見事に花をひらいたのである。  ・・・・・つづく

Re: 昭和43年「明治座11月特別公演」パンフ - さくら

2009/06/15 (Mon) 16:02:40
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 ≪ひばりちゃんと八木アナウンサー。≫

八木= ある有名な作家が「私の代表作はこの次に書く作品だ」といってます。常に前進する気持ですね。
    そこで、ひばりさんの次の代表する歌はなんですか?
ひばり=私も、常に次の歌、そして、又その次の歌はもっと良く歌おうと心がけてます。今、一番力を入れているのは、「熱祷」という歌です。
    川内康範さんが作詩して、弟が作曲しましたものです。
八木= その「熱祷」を歌って頂けますか。
ひばり=はい。
八木= それでは、川内康範作詩、小野透作曲の「熱祷」を歌っていただきます。

 ≪静かに歌うひばりちゃん。恋人に語りかける女のせつない気持。いつかひばりちゃんの頬に伝わる涙。

  歌い終わっても、しばし涙はとまらないひばりちゃんです。

  拍手をしながら出て来た、今夜のお客様、田中氏、川口先生、古賀先生、原田選手ら他の方々。
  古賀先生から花束を受けとられるひばりちゃん、又涙がこみ上げてきそうです。≫

 大衆の中に生まれ、大衆の心をうたう美空ひばりは、恵まれた天分とそれを磨き上げる不断の努力によって培われたものといえましょう。これからの長い人生を今日にもまして、その名前のように、いつまでも、高らかに歌い、雄々しく羽ばたいていただきます。

 ≪ひばりちゃんのクローヅアップ
  エンディング、高く。≫  ・・・・・おわり

「偏愛的名曲事典」より - さくら

2009/06/09 (Tue) 22:05:25
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『偏愛的名曲事典』 〜文学と音楽の婚姻〜  齊藤慎爾著  三一書房  1994.12.15

オリジナル原盤で聴く『美空ひばり魅力のすべて(5)』

 昭和十二年五月二十九日生まれだから、美空ひばりも四十五歳になる。しかし、わが内なるスクリーンでは、ひばりは昭和二十四年代、十二歳時のシルクハット、エンビ服、あるいは靴磨きの少年姿で凍結している。
 私にとっては「悲しき口笛」「私は街の子」「越後獅子の唄」「波止場だよお父つぁん」の歌手としてのみ存在する。少年少女期を〈黄金時代〉として回想できず、むしろ暗い魂の惨劇に耐えた季節としてとらえる者たちにとって、ひばりは光明だった。古橋選手の世界記録でも湯川博士のノーベル賞でもなかった。
 「私は街の子  巷の子  窓に灯がともる頃  いつもの道を歩きます」ひばりはこの世になじめぬ無名の孤児としてはぐれていた。私もまた貧しく不幸の翳を宿した家になじまず微熱にうかされたように歩き回っていた。「悲しき口笛」が流れる路地で「いつかまた逢う指切で笑いながらに別れたが」そんな明日が決して訪れぬことを少年たちは漠然と気付いていた。「丘のホテルの赤い灯」も今にして思えば暗澹たる〈戦後〉の終末をいち早く告知していた。
 山の牧場の夕暮れ、独りヤッホーと呼びかける山彦少女を、盲目の老マドロスに波止場だよと告げる少女を、私はほとんど愛していた。
 これらの悲調は街の子の主調音だ。高級車に乗り四囲を厚いガードで保護される現在のひばりちゃんは、巷の子といえようか。
 オリジナル原盤『美空ひばり魅力のすべて(5)』(AZ7144)は、彼女すら忘却したであろう、あの不良少年の魂の底の沈黙の一片をかたくなに守るといった凛としたひばりがいる。  ・・・・・おわり

「Mine」 1990. 5.10 - さくら

2009/06/01 (Mon) 23:44:00
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連載 伝説になった女たち・19 『「昭和」に殉じた歌謡曲の女王 美空ひばり』  文:山崎洋子

《「昭和」という時代が終わったとき、まるでそれを追いかけるように、一人の偉大なスターが逝った。
 美空ひばり・・・9歳で舞台に立って以来、彼女は次々とヒット曲を生み、「女王」の名をほしいままにした。
 時代とともに歩み、彼女の歌が時代の流れを作る・・・ひばりは、まさに昭和の歴史そのものだった。》

 あれは小学校中学年の頃だったと思う。祖父がつくづくとわたしの顔を見て、おまえは美空ひばりに似てる、と言った。へえ、そうだったのか、と、わたしは驚いた。まだこの頃、わたしは自分の顔に大してなんの感想も持っていなかった。鏡に映して、しみじみと眺めたこともなかった。
 しかし女と生れた以上(男もそうかもしれないが)、いずれ自分の容姿というものが、重大な関心事になってくる。わたしの場合は、祖父のひとことがきっかけになった。
 美空ひばりの顔は、もちろんよく知っていた。彼女はトップ歌手であり、当時は東映の専属女優でもあった。わたしの住む映画館にも、ひばりの主演映画がしょっちゅうかかっていた。たいていは、大川橋蔵や中村錦之助(現萬屋錦之介)と共演の時代劇だった。そのうちの何本かはわたしも観ていた。しかし、自分に似ている人として、意識しながら観たことは一度もなかった。
 ちょうどその時も彼女の映画がきていたので、わたしは映画館へ駈けていった。貼ってあるポスターや写真を眺めた。そうか、わたしはこういう顔をしていたのか、と初めて認識した。同時にがっかりした。
 正直言って、彼女のことを美人だとは思えなかった。逆に、男みたいな変な顔だと思った。それはつまり、わたし自身もそうだということになる。複雑な気持ちだった。それから何年ものあいだ、容貌コンプレックスにとりつかれたほどである。
 念のために言っておこう。美空ひばりのことを美人だとは思わなかったが、魅力がないと思ったことは一度もない。それどころか、多くの人々同様、彼女のことが大好きだった。歌はもちろん素晴らしい。だが映画女優としての彼女も、一緒に出ている美人女優などより、はるかにチャーミングだった。お姫さまになっても、若衆になっても、「ひばりちゃん」は誰よりも輝いていた。
 が、彼女と顔の似ている者が、同じように魅力的かというとそうではない。「ひばりちゃん」の人気は、顔ではないからだ。かといって、同じくらい歌がうまいというだけでも「ひばりちゃん」にはなれない。いったい彼女の何が、あれほど人を魅了するのか。
 スターの持つカリスマ性を、言葉で説明するのは難しい。神様がその人にだけ特別に、「スター」という魔法の粉をふりかけた・・・・・・としか言いようがない。その魔法の粉を、美空ひばりは、たっぷりとふりかけられてこの世に生れてきた。  ・・・・・つづく

Re: 「Mine」 1990. 5.10 - さくら

2009/06/02 (Tue) 22:48:37
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★歌をやめるなら死ぬ・・・。十歳にして、歌が命に。
 美空ひばりは、本名を加藤和枝という。衆追うわ十二年五月二十九日、加藤増吉、喜美枝夫婦の長女として生まれた。増吉は横浜の磯子区滝頭に店を持つ、腕のいい魚屋だった。きっぷが良くて、遊び好き。祭りといえば先頭にたって神輿をかつぐし、ボクシングに
熱中してジムにも通う。髪にはパーマをかけ、出かける時には香水をつけるという、ダンディでもあった。
 喜美枝のほうは、下町のおかみさんそのもの。あけっぴろげで飾らない性格だった。夫が外に愛人をつくると、つかみかかって怒りもする。が、けっきょくは我慢してしまう“日本の女”でもあった。
 相性がいいとは言い難い夫婦だったが、ひとつだけ大きな共通点があった。芸事が好き、なかでも歌が大好き、という点である。和枝はそんなふたりの間に、まるで天からの贈り物のように誕生した娘だった。
 物心ついた頃から、和枝は両親以上に歌を好んだ。ひとりで蓄音器をかけ、家にあるレコードを日がな一日聴いていた。戦争が始まり歌など不謹慎だという時世になると、押し入れに蓄音器と一緒に籠って籠ってでも聴いた。 
 レコードは両親の集めた歌謡曲ばかりだった。幼い和枝はそれを片っ端から覚え、大人顔負けの節回しで歌ってみせた。誰が教えたわけでもない。声と音感の良さは天性のものだった。  ・・・・・つづく

Re: 「Mine」 1990. 5.10 - さくら

2009/06/03 (Wed) 20:59:00
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 歌の好きな両親は、和枝の最初のファンになった。増吉は楽器のできる仲間を集め、娘のために楽団を作った。喜美枝はその楽団に美空楽団という名をつけた。
 和枝は美空楽団の演奏で、当時のヒット曲である『大利根無情』や『九段の母』などを歌った。場所は、小学校の校庭や勤労動員の工場などだった。まだ十歳にもならないというのに、和枝はあたりまえのように大人の歌を歌った。それで周囲を納得させてしまうほど、彼女の歌唱力は並外れていた。
 増吉も喜美枝も、娘の歌に人が感動するのを見るのが嬉しかった。なによりも、和枝自身が人前で歌いたかった。あがるということは、まずなかった。逆に、疲れていても悲しいことがあっても、人が聴いてくれさえすれば、いつもベストな状態で歌うことができた。歌い始めたその時から、彼女は堂々たるプロフェッショナルだったといえよう。
 九歳の年、両親はアテネ劇場という映画館を借り切って、和枝を舞台デビューさせた。そして同じ年の暮れ、NHKの「のど自慢素人音楽界」にも出場させた。審査員たちは、和枝の歌を唖然としながら聴いた。小さな子供のくせに、大人の歌を大人以上のテクニックと情熱で歌う。うますぎて不気味だという妙な理由で、和枝は審査対象から外された。気落ちした娘を喜美枝が励ました。とにかく歌がうまいことは確かなのだ。審査員だって、そのことは否定できなかったではないか。
 その頃から、喜美枝と和枝の二人三脚が始まった。増吉は店があるから、そうそう和枝についてはいられない。だが喜美枝は、娘の歌いたいという気持ちをなによりも優先した。ある一座から四国巡業の話がくると、学校を休ませてまで行かせた。もちろん自分も一緒である。
 この旅で、和枝は九死に一生を得るほどの事故にあった。雨上がりの道で、一座を乗せたバスが横転したのだ。喜美枝は無事だったが、和枝は全身骨折の上に左手首を深く切るという重傷を負った。
 命に別状はなかったものの、この事件は増吉を激怒させた。楽団まで作って歌わせはしたが、彼は娘をプロ歌手にする気はなかった。世の父親同様、結婚して子供を生み、平凡な女の幸せを手にしてほしいと願っていた。
 もう和枝には人前で歌わせるな、と増吉は喜美枝に命じた。喜美枝はそれをはねつけた。増吉の愛人問題を持ち出し、あんたが好きなようにしてるんだから、わたしだって好きにさせてもらう、と言いはった。が、増吉の反対を封じ込めてしまったのは、なによりも歌に対する和枝自身の情熱だった。
「歌をやめるくらいなら死ぬ」
 眼に涙を溜め、子供とも思えないほどの迫力で、和枝はそう言い切った。増吉は返す言葉を失った。その年、和枝は美空ひばりという芸名を得た。そして、本格的にプロ歌手への道を歩み始めた。  ・・・・・つづく

Re: 「Mine」 1990. 5.10 - さくら

2009/06/04 (Thu) 22:13:14
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★「うますぎる」・・・ひばりの才能に世間は困惑した。
 余談だが、横浜で生まれ育ったわたしの夫は、昭和二十三年、横浜国際劇場で美空ひばりの舞台を観ている。この時、ひばりは十一歳。当時の人気女性歌手、小唄勝太郎の前座で歌い、勝太郎の手を引いて舞台へ導くのが役目だった。
 ひばりが歌ったのは、笠置シヅ子がビートのきいた歌い方で大ヒットさせた『セコハン娘』である。
「ひばりが歌うと、みんな一瞬びっくりするんだ。そして笑いだすんだよ」
 その時のことを、夫はそう言う。びっくりするのはわかるが、どうして笑うのか・・・。
小さな子供が、大人の声で大人の歌を達者すぎるほど達者に歌う。そのアンバランスに人は驚き、困惑のあまり笑い出す。要するに、豆歌手としてデビューした頃のひばりは、一種のゲテモノと見られていたのだ。
 高名な劇作家や詩人も、ひばりのことを、「奇形的な大人」「児童福祉法無視」「うすきみ悪い見せ物」と、雑誌や新聞で公然と叩いた。笠置シヅ子と作曲家、服部良一からも、笠置の持ち歌は歌うな、と言われてしまった。もしもひばりがただのゲテモノだったとすれば、この時点で消えてしまっていたに違いない。
 だが、ひばりはゲテモノではなく天才だった。しかも、自分の天分に溺れることのない努力家だった。それが、ひとり、またひとりと力のある人間を引き寄せ、動かすことになった。国際劇場の支配人を辞め、ひばりのマネージャーになった福島通人、ひばりの主演映画を次々と撮った斎藤寅次郎監督、そして当時の興行を仕切っていた山口組の親分、田岡一雄・・・。
 彼らはひばりの仕事をより高いところへと押し上げ、ひばりもよくそれに応えた。横浜の国際劇場出演から十年後昭和三十三年、歌舞伎座で記念公演をおこなったひばりは、名実ともに歌の女王となっていた。  ・・・・・つづく

Re: 「Mine」 1990. 5.10 - さくら

2009/06/06 (Sat) 08:22:25
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★わずか二年で破局。結婚より歌を選んだ。
 少女から女へと成長する中で、いくつかの恋も噂された。俳優の鶴田浩二、石浜朗、中村錦之助、バンドマンの小野満などである。ことに小野満のことは喜美枝も気にいり、婚約まで進んだ。
 が、母ひとり子ひとりの小野は、結婚したら、ひばりの家へ入ること、という喜美枝の条件を受け入れることができなかった。スター、美空ひばりを妻にするのも、男にとってはたいへんな重荷だ。かといって、ひばりに歌手をやめさせることなどできない。ひばりはいまや、加藤家を支える大黒柱というだけではなく、大勢のスタッフを養う身だった。
 けっきょく、小野満が身を引くことでこの恋は終わった。ひばりが雑誌の対談で小林旭と知り合ったのは、それから四年後のことである。
 小林旭は日活専属の俳優だった。渡り鳥シリーズなどのアクション映画で人気を集め、歌手としても主演映画の主題歌を大ヒットさせていた。芸能誌の人気投票では、この年、女性のトップが美空ひばり、男性のトップが小林旭であった。
 そのふたりが、会ったとたん恋におちた。そしてたちまち、結婚を口にするほどの仲になった。歌の女王と人気ナンバーワンの男優・・・・まさしく夢のカップルだったが、またそれゆえに、地に足のついた結婚生活を、想像しにくいカップルでもあった。いつも味方だった喜美枝も、この恋には反対した。
 思うようにデートの時間もとれない中で、ふたりの恋は短期間でボルテージを上げていった。そして翌年の昭和三十七年、周囲の危惧をよそに、ふたりは結婚した。二十五歳・・・・同い年だった。
 ひばりと共に、三人娘として人気の高かった江利チエミ、雪村いづみが、これより少し前、それぞれ俳優の高倉健、アメリカ人のジャック・セラーと結婚している。それに刺激されて、ひばりの胸にも、結婚願望が芽生えていたのかもしれない。
 喜美枝はこの時初めて、娘のそばから離れた。結婚しても一緒に住むつもりだったのだが、身を切られる思いで別居に踏み切った。旭が喜美枝との同居をいやがったからだ。
 しかし別居はしても、やはり母と娘は一心同体だった。ひばりと喜美枝は、毎晩、長々と電話でお喋りをした。歌うこと以外のすべてを、母親にゆだねてきたひばりが、そう簡単に母親離れできるはずもない。が、旭にすれば、それは苛立たしいことだっただろう。
 ひばりはひばりで旭に不満を持った。妻の稼ぎを計算に入れた旭の浪費、妻の天職である歌を、平気でけなす無神経さ、舞台のラブシーンさえいやがる嫉妬深さなどだ。
 スターと言う者は、もともとが人一倍のナルシストである。誰のことよりも自分自身を愛するという人種だ。そういうふたりが結婚しても、うまくいくはずがなかった。
 旭に遠慮して仕事の量を減らすうちに、ひばりの人気には陰りがみえてきた。主演映画は当たらず、ヒット曲もでない。喜美枝は、ひばりの結婚生活にも、歌手生命にも強い危機感を抱いた。そして、猛然と動き始めた。
 人気作家、川口松太郎に芝居を書きおろしてもらい、新宿コマ劇場での長期公演を決めた。さらに、ひばりの気持ちを確かめた上で、旭との離婚をセッティングした。離婚の調停役は山口組の親分、田岡一雄に頼んだ。
 昭和三十九年、ふたりは離婚を発表した。田岡に付き添われて記者会見に臨んだ旭は、
「ぼくにとっては寝耳に水の離婚話だが、彼女の気持ちは田岡さんから聞いた。彼女はぼくといるより、美空ひばりとして芸術と結婚したほうがいい、そう理解しました」
 としか言わなかった。田岡親分が、いまもこれからも、ひばりのことについては何も喋るなと、事前に釘をさしていたのだ。たった二年足らずの、短い結婚生活だった。  ・・・・・つづく

Re: 「Mine」 1990. 5.10 - さくら

2009/06/08 (Mon) 00:30:20
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★どんな不幸に見舞われても、不死鳥のごとく甦って。
 大スターには、その華やかさとは裏腹に、私生活の不幸な人が多い。ひばりの場合など、その典型といえるだろう。結婚もうまくいかなかったが、身内の問題でも悩みがたえなかった。
 まず、両親の不仲である。増吉の女性問題は、ひばりのデビュー以前からあった。彼は愛人にバーを持たせ、ふたりの子供まで生ませていた。喜美枝がひばりの仕事で外出がちになると、寂しさも手伝って、増吉の気持ちはよけい外へ向かうようになった。
 魚屋を義弟に譲って寿司屋をやっていたが、そのうち胸を病んで、仕事もあまりできなくなった。だが娘の稼ぎで食べていると言われるのが悔しくて、増吉はおかどちがいの宅地造成という仕事に手を出した。その慣れない仕事で無理をしたのがいけなかった。病気が進行して、とうとう入院するはめになってしまった。
 喜美枝はその病院にはほとんど姿を現さなかった。昭和三十八年二月一日、横浜中央病院で増吉の最期を看とったのも、喜美枝ではなく、外の女性だった。
 ふたりの弟たちも、ひばりにとっては可愛い半面、常に苦しみの種だった。上の弟、益夫は母親がいつも家にいない寂しさから、不良グループに入った。ひばりの弟だといい、お金を湯水のように使えば、仲間はちやほやしてくれた。そういうことでしか自分の存在を確かめることができないほど、彼は気が弱く自信のない性格だった。
 高校二年の年、益夫は不良同士の喧嘩で学校を退学になった。ひばりは弟を、当時恋人だった小野満に託した。益夫は小野満の楽団で音楽を勉強した。そして小野満の「小野」をもらい、小野透という芸名で歌手デビューした。
 歌はヘタではなかったが、彼には姉のようなスター性がなかった。ステージに立ったのも映画に主演したのも、姉の威光によるものだった。なまじ姉と同じ世界に入ってしまったがために、益夫は自分がそれだけの存在でしかないことを、思いしらされることになった。
 彼は不良仲間を引き連れて高級クラブを飲み歩いた。請求書はすべて、ひばりのところへ回された。ヤクザと付き合い、背中に入れ墨まで彫った。だが、何をしてもよけいに自信がなくなるばかりだった。  ・・・・・つづく

Re: 「Mine」 1990. 5.10 - さくら

2009/06/08 (Mon) 22:33:24
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 姉が小林旭との婚約を発表した年、益夫は引退を発表した。芸能界にいる限り、どれほど頑張っても「美空ひばりの弟」でしかない。それがむなしくなったのだ。
 その翌年、彼は賭博罪で逮捕された。その後も、銃砲不法所持、傷害などの罪を重ねた。かとう哲也と名をあらため、結婚、離婚、再婚と何度も人生の節目を迎えながらも、さらに暴力行為や賭博で逮捕されている。
 そんな時、ひばりは最後の砦ともいうべき母、喜美枝を脳腫瘍で失った。荒野に放り出されたかのような姉の姿を見て、益夫はようやく自分の存在理由を見出した。それは、母に変わって、美空ひばりを守ることだった。
 益夫はひばりプロの社長になり、懸命に働いた。が、時すでに遅く、彼の体は病魔にむしばまれていた。昭和五十八年、ひとり息子の和也を残して、益夫はこの世を去った。肺結核から肺炎を併発した結果だった。
 花房錦一という名でデビューしたもうひとりの弟、武彦も、兄同様、ひばりの七光で役を貰うだけの役者だった。そのくせ周囲に威張りちらすので、ひばりのもとに苦情が殺到した。仕事に厳しいひばりは、自分の威光で場を与えることを止めた。仕事のなくなった武彦は酒に溺れ、けっきょくは妻子の生活まで姉に頼らざるをえなくなった。
 武彦が結婚、離婚を繰り返し、二度めに出した店を飲み潰してしまった時、ひばりは心を鬼にして武彦を突き放した。もう会いたくもないと宣言した。武彦はすでに、酒で体を壊していた。肝臓病と糖尿病だった。会ってくれない姉を怨み、それ以上に恋しがりながら、この世を去っていった。兄が死んだ時と同じく、四十二歳だった。

 身内だけではない。名マネージャーで、一度は袂を分かったこともある福島通人も、身内同然だった山口組の田岡一雄も、ひばりを残してあの世へ行ってしまった。だがひばりは、大きな悲しみの後に、必ずといっていいほど大ヒットを飛ばしている。
 熱狂的なファンに塩酸をかけられた後が『港町十三番地』、離婚の後が『柔』、弟の益夫が警察沙汰を起こした頃は『悲しい酒』と『真赤な太陽』・・・・・・。
 また、弟の事件でNHK紅白歌合戦を落選したり、母を失ったりした時も、大きな賞を獲得したり、新しい仕事に挑戦して成功をおさめたりしている。仕事に関する限り、ひばりはまさしく、不死鳥であった。
 そのひばりも、病魔には勝てなかった。平成元年六月二十四日、順天堂大学病院にて間質性肺炎により、五十二歳の命を閉じた。ひばりに冠せられた「歌の女王」という呼び名は、まだ誰にも奪われていない。」  ・・・・・おわり

「週刊TVガイド」 1973.11. 9 - さくら

2009/05/24 (Sun) 00:41:55
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新連載・インサイドレポート 前田武彦語る「ひと」 
『紅白に無関心な女王の孤独』 〜沈黙やぶって語る美空ひばりの胸のうち〜

《東京、帝国劇場楽屋、五階の奥まった一室。「美空ひばり」ののれんが下がっている。夜の部の始まる40分前、化粧まえ(鏡台)に向ってお化粧を始めているひばりちゃん、「時間がないのョ、今から(化粧を)始めないと・・・・・・」》

 かつらをつけるために頭に羽二重で巻き、襟元まで白塗り。羽二重を巻いた頭が丸いのでお地蔵様の雪景色みたいである。
 僕はさっそく取材メモ帳を取り出した。
「まるで週刊誌の記者みたいでしょう?」
 ひばりちゃんは鏡ごしにそれをみて笑いながら、
「本当は、今年いっぱい雑誌や新聞の取材をお断りしてたんですけどネ」
「恩に着ます・・・・・・でも、どうして断るの?」
 とはきくだけヤボ、彼女の周辺の騒々しい話題、いろいろな記事に書かれた例の一件で、記事も、それを書く記者も信用できなくなったというわけだ。
「ムゲン(無言)実行、何をいわれてもじっとこらえる事を修業しました。前は腹を立てましたけどネ・・・・・・今じゃ、ゴルフのバンカーや池だと思うことにしたの」
===バンカーや池?
「そう、無視しないとかえってピンチに陥るでしょ」
===なるほど、週刊バンカーや池新聞というわけだ。
「こないだネ、池もバンカーも無視してみごとワンオンしたの・・・・・・年に一回くらい、行くたびに初心者、でも空気がいいし」
 部屋のもう一方の角に坐っていたお母さんが、例の低いトーンで話しに加わる。
「前田さんも同じだけど、いつも居る所の空気が汚れてるでしょ、タマには息抜きしないと」
 お母さんは地味な和服でお化粧もしていない。人によってはこわがったりくむたがったりするが、僕には何だか昔、長火鉢の横に坐ってたお袋みたいな気がする。  ・・・・・つづく

Re: 「週刊TVガイド」 1973.11. 9 - さくら

2009/05/24 (Sun) 23:35:35
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===ひばりちゃん、体は別に悪いところないですか?
「これなのよ」
 と、ひばりちゃん、坐ったまま片方の足の先を見せる。親指の根元が内側にとがって腫れたようにになっている。
「ダンサーがなる病気なんですって、切るとオカラみたいなのが出るの、切っても少しするとまたこうなっちゃって」
 痛そうである。履きものが原因らしい。
「なきなった中車(歌舞伎俳優・市川中車)さんがお仕事でご一緒したとき、とてもいい事いって下さったんだけど、つぎ足(背を大きくみせるための工夫)はいけない、大きく見せるなら芸を大きくしなさいって・・・・・・」
 だからハイヒールも低めにしているそうだ。近ごろの若い男性もハイヒールまがいの靴をはいてるが、背の低い人はなんだかあれでカバーしてるみたいで情けない、といったやりとりが続く。部屋のスピーカーが「開演15分前です」と告げる。

===舞台が一番好き?
「そうですネ、いちばんぴったりくるみたいねえ、中途半端はいや。私って、舞台でわりと細かい芝居をやるほうでネ、そういうところをよく見てくれるお客様が一ばんうれしいんです」
===テレビは?
「なんだか、ちゃんと見てくれてるのかどうか演ってて空しい気持ちになるって云うのかしら・・・・・・その代わりテレビなら、見てる人がパチンとスイッチを切ったとしても、こちらはわからないから気が楽だけど・・・・・・」
 舞台では、客席の一人にでも途中で席を立ったりされるとすごく気になるという。そう云えば、ひばりちゃんの親友である中村メイコさんからきいた話で、ひばりちゃんの舞台が進行中に客席でお弁当を食べ始めた人がいたら、ぴたりと芝居をとめて「そこでお弁当を食べていらっしゃる方!」をにらみつけたとか・・・・・・。
「そんな事があったかしら、でも私はそういう人にはちょっと皮肉を云ったりするんです。でもその代わり、見てくれる方のためには汗かいて一生懸命やります」  ・・・・・つづく

Re: 「週刊TVガイド」 1973.11. 9 - さくら

2009/05/25 (Mon) 22:18:12
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 ここでお母さんが発言。
「貸切りでも早く終わらないのはうちの舞台だけだそうですよ」
 貸切りのお客さんだと、えてして演ずる側が気分がのらず、スルスルっと終わってしまうのが通例だそうである。つまり客と演者との無言のやりとりみたいなもの。お客が真剣に見ているから張り切ってもうひと芝居といった気合が入る。それが“貸切り”の客相手だと少なくなって早く終わるのだそうだ。
===ひばりちゃんは客席のどのあたりを相手にしてますか?
「そりゃ、ぜんぶのお客様を相手だけどやっぱり天井桟敷の人をまず考えます」
 天井桟敷を大切に、とはなんとなく名優の座右の銘みたいだが・・・・・・。
「地方の公演なんかで、三階の隅にいらっしゃる人に、私の声がきこえますか?きこえたら拍手で答えて下さいって云うの。そうすると、きこえるぞォって拍手して下さる、それから安心して舞台が進み始めるんです」
===反対に最前列、かぶりつきの人は?
「・・・・・・それがネ、おかしいの、いっとう前の人で双眼鏡みてる人がいるのよ、何だか毛穴までのぞかれそうで、ムズムズしちゃうわ」
===毛穴といえば、さっきちょっと素肌をみせて貰ったけど、思ったより荒れてないみたい・・・・・・」
「そうですか・・・・・・まァなるべく肌を休めようと思って、仕事以外は薄化粧もしないようにしてるんだけど・・・・・・だからつい外へ出るのが億劫になっちゃって・・・・・・」
 家にひきこもりがち、そして家ではレコードを聴きながら一杯飲んでるのが好きだという。飲むのはブランデー、ウイスキーは性に合わず全く飲めない。ビールは一本程度、そして飲みながら聴くレコードは・・・・・・、
「わるいけど日本の歌手のは聴かないわネ、お酒飲んでフワーっといい気持のとき、すんなりととけ込めるのはアチラのメロディじゃないかしら」
 日本の歌謡曲の女王が云うんだから面白い。彼女は一人チビチビ“悲しい酒”を飲むのは嫌いだという。以前にお酒の相手をしたお母さんもこの一年ほど、体を大事にするため一滴も飲まないで二階へ上がって寝てしまうという。
「だってもう六十ですからね、明くる日にひびくからさっさと寝ちゃうんですよ」とお母さん。お互いに気を使ってムリな付き合いはしない事にしたんだそうだ。  ・・・・・つづく

Re: 「週刊TVガイド」 1973.11. 9 - さくら

2009/05/27 (Wed) 15:30:20
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===お母さんとはずい分ながい付き合いだけど、」ケンカはしないんですか?
「ぜんぜん!」
 ふたり顔を見合わせてニッコリ。嘘をいってるとは思えない。
「私はね、前田さん」とお母さん。
「四人の子供に一ぺんも口答えされた事がないんですよ。お姉ちゃん(ひばり)は小さいときから叱られた事がないけど、弟たちにはよく叱るんです。でも兄弟の前で叱らずに一人だけ呼んで叱るんです。ちょっと来なさいって部屋によんで、正座して話をきくんです。しばらくするとたいていお姉ちゃんが来て『もういいでしょ』って救いの手を出してやる、それでやっとお小言から解放されるわけ。だから武彦なんか(僕ではなく、ひばり一家の末弟、香山武彦クンである)部屋から出るのに足がシビれて這って行くほどなんですよ」
 と子供の頃の思い出話・・・・・・と思ったら
「いえ、それは今でも同じです。弟たちが叱られて、お姉ちゃんが謝って許して貰うんです」

 ここで僕は話題にしたくないと思っていたかとう哲也クンの例の事件を連想せざるを得なくなった。
「これ(ひばり)はだから弟が可愛くて仕方がないんですよ」
 というお母さんの言葉を追ってひばりちゃんが後をつづける。
「・・・・・・哲也はああいう事をしてたしかにいけない事だと思います・・・・・・ただ、あれが私の(ひばり)弟だという事でよけいに大きく扱われるのが・・・・・・でも、私は哲也が可愛いんです」
 と化粧の手を休めて声を落とす。
「ひばりの弟だから」という理由で特に悪者扱いされるとしたらなるほどその点は同情すべきかもしれない。しかし今まで「ひばりの弟だから」という理由で特別に良い扱いもされていたかもしれない。今度の事はその反動と考えてもいいんじゃないかな。しかし弟思いの姉として、ひばりちゃん自身が傷つくのは第三者の僕からみても気の毒でならない。
 さて、時間がないからNHKの「紅白歌合戦」の事をきこう。
「NHKは全国の人が見たり聴いたりしてる大切な放送局だって事は私もよく知ってます。紅白に出ろといわれれば名誉だと思って出させてもらいたいです。でもそれはNHKがきめる事で、しかも11月になってから話があるのが例年のきまりなんです。それを(雑誌や何かが)今からやれどうのこうの、といわれるのは迷惑です。うちは三年前からあの番組は辞退しようと思ってたくらいで、出られなくなったら大変だなんていうふうには考えてません」
 紅白に出る出ないで、自分の歌手としての価値が大きく左右されるとは考えない、しかし出ろといわれれば出るのが当然であるし、ファンのためにもなる。要するに紅白の出場問題で神経をとがらせていませんというわけだ。
 ブザーが鳴った。いよいよ開幕の時間である。スピーカーの問いかけに準備OKの答えを返してひばりちゃんは立ち上がった。まっ赤な着物、かつらもきちんとつけている。インタビューの間に“雪の地蔵さま”が“八百屋お七”になってしまった。音楽が華やかなオープニングを奏でる楽屋を出てエレベーターへ。エレベーターは歌謡界の女王をのせて舞台の奈落へ降りていった。

      *
 僕にはこの大スターの気持ちがよくわかる。喋った言葉が歪められたり“高姿勢”だの“顔色を変えて”などと妙な表現で書かれるのがどれほどいやなことかよくわかる。スターの外面が悪く、警戒心が強くなる理由もよくわかる。
 ひばりショーのフィナーレで彼女はこう語る。
「では最後にこの歌をきいて下さい。これは私の今の心境を歌っています。とてもいい歌です。皆さんもこれをきいて何かお感じになることでしょう・・・・・・マイウェイという歌です」
  ♪やがて私も  この世を去るだろう
   ながい年月  私は幸せに
   この旅路を今日まで生きてきた
   いつも私のやり方で
         文・前田武彦     ・・・・・おわり

「この旅にいのち燃やした」 - さくら

2009/05/17 (Sun) 22:03:58
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『この旅にいのち燃やした』 松本醇著  毎日新聞社 1988. 3

「美空ひばり」・・・大杉が知っていた“女王の旅”四十年 (横浜〜高知・大杉)

「杉の大杉」と、人が呼ぶ。
 高知県長岡郡大豊町にある、日本一の大杉である。
 根周り二十メートルと十二メートルの双幹が、天を切り裂いてそびえる。ともに樹齢三千年という。
 町村合併をするまで、ここは大杉村杉・・・・といった。木の存在が村と字の名になっているのも、日本一の証拠なのだろう。
 この大杉から千メートルとは離れない国道439号線(本山〜大杉線)の下りカーブで、一代の旅客バスが転落した。
 バスは道路を飛び出すと、半回転して横転した形のまま横滑りし、桜の切り株で止まった。バスが尻をつき出したすぐ下は吉野川の支流の穴内川の急流であった。それは不幸中の、わずかの幸運であったといえる。このバスに九歳の美空ひばりが乗っていた。
 自己の翌日の、地元の「高知新聞」がこう伝えている。
「・・・・・・バスははずみを食らって横転し、車体後半部を高さ二十メートルの崖ぎわにのり出し危うく転落をまぬがれたが・・・・・・車掌山北梅香さん(十八)は即死、乗客のうち井口静波、音丸のコンビと共同巡業中の楽団美空一座の看板スター美空和枝ちゃん(九)は全身骨折の重傷。和枝ちゃんはガラスの破片で左手首動脈を切っており、経過を危ぶまれている・・・・・・」
 国鉄大杉駅が、目の下に見えていた。この駅から高知まで約七十分。穴内川に切り開かれた両岸を、国道と鉄道が張りつくように走る。そんな山中の出来事であった。
 バスのステップに立っていたという若い女の車掌は横転したバスから投げ出され、これは一目見ただけで、誰の目にも死亡とわかった。遺体にはかけつけたひとの手で、コモがかぶせられた。
 もうひとり、傍で左手首から大量の血を流して倒れている少女がいた。美空和枝。・・・・・・のちのひばりそのひとである。同じバスに乗り合わせていた長野氏という地元の代議士が自分のネクタイをはずして少女の左腕をきつくしばった。それがたった一つの、応急手当てであった。
 医者はなかなかやって来なかった。少女の顔はみるみる白くなっていき、人々の関心はバスの中に残されたひとの救出に向けられた。誰かが通りかかり、動かないこの少女にコモをかけようとした時、
「・・・・・・死んでないっ」
と、そのコモをはねのけたひとがいる。
 少女につき添っていた母親、加藤喜美枝さんであった。

Re: 「この旅にいのち燃やした」 - さくら

2009/05/18 (Mon) 22:41:19
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 美空和枝・・・と名乗った彼女の初ステージは、昭和二十一年九月。横浜の「アテネ劇場」だった。劇場とは名がついていたが、大衆浴場を改装した小屋であったといわれる。
 父の加藤増吉さんが、その小屋を借りてくれた。
 音楽に堪能であったといわれるこの父は、横浜・滝頭で魚屋の「魚増」の店をひらきながら、ほとんど趣味だけの楽団をつくっていた。「スター美空楽団」と呼んだ。「美空」の名は何よりも先に、父の楽団の名であったわけだ。
 その日は楽団の旗揚げ公演で、そこに歌のうまい八歳の娘が加わる・・・・・・という趣向だった。入場無料だったが、呼びこまなければ客はなかなか入ってくれなかったという。父と母は、劇場の外でチラシを配った。
 和枝の最初の登場は「旅姿三人男」であった。ひばりが自伝に、こう記している。
「忘れられないのは、最初に『旅姿三人男』をうたったときのことです。わたしは扮装して三度笠で花道にでてくるのです。ここで、自分なりにふりを考えて、三度笠をパッと取ると、パッとライトが当たり、とてもすばらしいタイミングでした。その、タイミングのいいライトが、わたしを照らし出してくれた瞬間の誇らしいよろこびは、子供心にもはっきりとおぼえています。この瞬間というものは、とても気持のいいもので、いまでも私は好きです・・・・・・」(『ひばり自伝』草思社)
 美空ひばりが“芸能”というものの原点と触れ合った瞬間が、たぶんこの日だったのだ。この日を“美空ひばりの初舞台”と呼んでいいだろう。
 母喜美枝さんは、一つの確信をもった。娘には、その“芸能”と呼ばれるある“能力”がそなわっている・・・・・・ことを。
 逆にそれを引き止めようとしたのは、父で会った。芸事が好き・・・といっても堅気の魚屋で、過不足なく過ごしてきたのだ。今さらその身内が、芸を売る仕事をしなくてもいいのではないか、と、父は考えた。
 そんな中へある日、どこから噂を聞いたのか、井口静波、音丸夫妻から、旅興行の誘いが飛び込んできた。「音丸一行」と「美空和枝とその楽団」の合同公演という形で旅に出てみないか、というのである。戦前「船頭可愛や」や「博多夜船」などで声明の高かった人からのその申し入れは、決して悪い話ではなかった。
 母と娘は、昭和二十二年四月、四国へ向けて運命の旅に出る・・・・・・。  ・・・・・つづく

Re: 「この旅にいのち燃やした」 - さくら

2009/05/19 (Tue) 23:48:07
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「この旅にいのち燃やした」の取材をスタートさせる時、美空ひばりさんにインタビューを申し込んだ。プロダクションのマネジャー森啓氏を通じて、何度かの“会話”の往復があった。
「人生たった一つの旅・・・・・・と言われれば“あの旅”しかないでしょう。今までに書かれたものがありますから、それを参考にお書きになってください」
「過去のことだけをお聞きするのではありません。いまのあなたのお気持ちなど、近況をまじえてお話しください。それが大事なのです」
「わかりました。では四月にでもなれば・・・・・・」
 その四月の思いがけない発病と入院は、おそらくご当人さえ、予想を超えたことだったのである。
 ひばりさんは九州での百三日間の闘病を終え、八月はじめ東京・目黒の自宅にもどった。九月四日まで点滴がつづけられていた、といわれる。
 九月中旬、プロダクションの森氏から「ひばりが、お返事をテー追うに入れました」と、連絡がきた。
(いまのあなたを、知りたい)
 と申し入れた筆者との約束を、この“女王”は忘れていなかったのである。

 ゴトン・・・・・・とマイクを取りあげる音から、テープがはじまる。
「九月十二日・・・・・・録音しました」
という声が入る。
 点滴から解放された美空ひばりは、その回復の報告を、母喜美枝さんの墓前でした。歩行は少々つらそうに見えたものの、ひとの助けを借りないで歩き、立っていられる。その姿を、マスコミのカメラの前に見せた。それが九月十三日のことである。テープはその前日に、録音されたことになる。
「・・・・・・突然病名を聞かされた時は、愕然といたしました」
 思ったより張りのある声が、テープから流れてくる。
「・・・・・・母を亡くして、つづいて次々と不幸を味わって・・・・・・それに耐えていこうと、ちょっと強いとこばかり見せようとした私に天罰が当たったのか・・・・・・とも思いましたし。・・・・・・その時、頭の中は真っ白になってしまいました・・・・・・」
 語りながら時々、溜息のような深呼吸。しばらくのブランクで、しゃべりの調子がつかめないのだろうか?
「・・・・・・仕事のスケジュールを一年前には決定して、その通りにしなくちゃいけない責任の重さが、私にはあるわけですね。そのためには健康を守りながらするのがあたり前なんですが、私の不徳のいたすところで、自分の体の痛さを感じながらも、倒れる一歩手前まで来てしまった・・・・・・。
 ご迷惑をかけたことが、非常に・・・・・・残念に思われてなりません・・・・・・」
 鳥のさえずりや町の騒音など、いつもならベランダ越しに聞こえるはずの音が、テープからは聞こえてこない。療養のための密閉された空間に、たぶん美空ひばりは、いるのだろう。  ・・・・・つづく

Re: 「この旅にいのち燃やした」 - さくら

2009/05/20 (Wed) 17:42:20
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 ふっと溜息があり、やや考えをまとめている間があって、彼女がその“旅”を語りはじめる・・・・・・。
「昭和・・・・・・二十二年でした。その時の私の旅は、たしか・・・・・九歳だったと思います・・・・・」
 雨が、降っていた。
 その朝、四月二十八日。本山町を出る県交通バスは、たぶん木炭バスであったはずだ。バスの、ほぼ満員の五十人の乗客のほとんどが前夜この町で興行をした音丸一行と、美空和枝楽団のメンバーたちであったという。
 その日・・・次の公演地が、県内の大田口だった。一行は土讃線大杉駅から上り列車に乗る。
 誰かが若いバスの運転手に言った。
「兄さん、少し急いで貰えないかね」
 そのバスの後ろから三つ目ほどの座席で、九歳の和枝が母に抱かれるように、坐っていた。
 横浜の学校では、もう新学期がはじまっていることだろう。遠い他国の、心細い旅である。しかし、この旅こそ母と娘で選んだ旅・・・なのであった。
 見おろす山峡のあたりは、雨が霧になっていた。道は終点までの約十一キロが、ほとんど下り坂の連続である。
 バスは、木炭の葵煙を残して、走り出した。

 同じバスに乗っていて、カスリ傷ひとつ負わずに救出された音丸さんが、地元の記者に語った談話がある。
「高知の運転手さんは荒っぽくて、恐ろしいわ。本山町をバスが出た時から、ずっと肝を冷やし通し。先生(井口静波氏)と走るバスの中で『もう汽車に間に合わなくってもいい。これじゃ永遠に生きて汽車に乗れなくなるわ』と話してるその時にドカーンとなって、あとは夢中でした。もう、土佐はこりごり・・・・・・」
 当時、高知新聞の写真部だった浜田豊繁さんは、いち早く現場に駆けつけたひとりだった。転落したバスの写真を撮り、負傷者が収容されている地元の上村医院へ向かった。
 その奥まった暗い畳敷きの病室にただひとり、重傷の少女・・・美空和枝が、痛々しく横たえられていた。血の気が失せて、紙のように白い顔をした少女はピクリとも動かない。さすがの写真部員も、その少女にカメラを向けるのは、はばかられたという。だから、美空ひばり“重傷の写真”は残されていないわけだ。
 浜田さんは高知新聞の写真部長をつとめたのち、いまは一線を退いた身だが、その時の“逃した特ダネ”を後悔していない、という。浜田さんがこんな話をしてくれた。
「高知の人間は、むかし、ああいう(バス転落という)事があったのを知っておりますから、ひばりさんのファンは多いですよ。この間の病気・・・・・・骨が壊れるというあれを聞いた時、コチラでは、もしやあの時の高知の事故で、骨に何か無理が来ておった、その後遺症が出たのではと・・・・・・。いえ素人考えですが。そんなこと言うて、心配しておる者もいたのです・・・・・・」
 事故から四、五日あと、少女は重傷のまま高知市内の外科病院に車で運ばれる。その時でさえ希望と絶望、半々の状態であったといわれる。  ・・・・・つづく

Re: 「この旅にいのち燃やした」 - さくら

2009/05/22 (Fri) 00:14:51
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 ベッドで九歳の美空和枝が意識をとり戻したのは、いつ頃のことだったろうか?ひばりはのちにこのときのことを、いくつかのインタビューにこうこたえている。
「・・・・・・生きている。生命(いのち)が助かった、とわかったとき、私は・・・・・・神様が助けて下さったのだと、自然にそう思いました。神様がお前はもっと歌うんだよと、私に生命を下さったのだ・・・って。私は素直にそう思いました」
 高知へ搬送されて約一カ月ののち、彼女は奇蹟的に蘇って、横浜のわが家へ帰る日がやってくる。
 高知駅から上り列車に乗った母と娘は、事故現場のある大杉駅で降りた。喜美枝さんがそこに日本一の「大杉」があることを、誰かから聞き知っていたのであった。
 二人は大杉を目指した。
 この日から「大杉」が、母と娘の“神”となるのである。

 テープの中の美空ひばりの声が、急に可愛く潤んで・・・・・・。大杉との“出逢い”を語りはじめた。
「バスのその事故で九死に一生を得た私は、偶然にもその土地が『大杉』という日本一の杉のある所と聞きましたので・・・・・・。小さい私のせめてもの願いは、その大きな杉の樹に、日本一の歌い手になるという約束をしたくて・・・・・・。石段を一生懸命、上っていきました・・・・・・」
 左手に巻かれていたという白い包帯が、まだ痛々しく見えていたことだろう。
 大杉は、かなり急な山坂の中腹にある。母と娘は励まし合いながら、その急坂を登っていったにちがいない。
 そして・・・・・・大杉が、そこにあった。
 ひばりが語り継ぐ。
「私は・・・・・・目の前の大きな杉さんに、小さな両手を伸ばして言いました。『杉さん、杉さん・・・・・・私はあなたのように日本一の歌い手になります』と・・・・・・。小さなひばりがね、約束をしたわけです。
 忘れもしませんね、この時のこと。・・・・・・こうして私は、芸能界へスタートしたわけなのです・・・・・・」 
 しかし、その、芸能界への“第一歩”は、スムーズというわけではなかった。
 横浜の実家へ約四十日ぶりに母と娘が着くのを、父の増吉さんが、こわい顔で待ちうけていたのである。もともと、娘が人前で媚を売るようなことに不満のあった父である。地方巡業のあげくに大事なわが娘が、生きるか死ぬかの災難に遭ったことが、この父には我慢できなかった。
 父と母はながい間、口論をした。
喜美枝さんにとっても、四国で体験した思いがけぬ災難は、心にも体にもこたえていた。
(和枝を歌わせるのは、もう止めよう)
と本気で思った時期があったようだ。
 そんなある日のこと、横浜市内にオープンしたばかりの横浜国際劇場に和枝を出演させないか・・・という話が飛び込んできた。話を持ち込んで来たのは故福島通人氏。のちに美空ひばりを世に出すことになるプロモーターである。
 といっても、この時は有名歌手の“前唄”であった。一曲歌ったのち、舞台のソデからメインの歌い手の手を引いてくる・・・という、つまりは有名歌手の引き立て役である。
 しかし、横浜国際劇場といえば、地元では最大の小屋であった。風呂屋を改装した「アテネ劇場」の比ではない。
(そんな所で娘の歌い納めができたら、あの子にも満足な身の退き方になるかもしれない・・・・・・)
と喜美枝さんは、考えたといわれる。  ・・・・・つづく

Re: 「この旅にいのち燃やした」 - さくら

2009/05/22 (Fri) 20:20:50
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 昭和二十三年四月。あの事故からちょうど一年目。横浜国際劇場の初日のステージで、和枝は岡晴夫のヒット曲「港シャンソン」を歌った。
  ♪赤いランタン  夜霧に濡れて
   ジャズがむせぶよ  埠頭(バンド)の風に・・・・・・
 歌を聞きながら、喜美枝さんの頬を涙が落ちた。もう二度と聞くことはなくなるかもしれない、娘の歌唱である。
 その時だ。プロモーターの福島氏がいきなり喜美枝さんのもとへ飛んできて、言った。
「お母さん、あの子を私に預けてください。あの娘は、ものになる!」

 去る十月九日。美空ひばりは所属のコロムビアのスタジオで、これまでの闘病の空白を埋めるかのような熱唱で、シングル盤二曲の吹き込みをした。新たな“ひばり”へ向けての、初仕事である。おし寄せた取材の記者たちに「ま、私には歌しかありませんものねぇ」と、この日の彼女は洩らしたという。
 その幼い日、高知の病院のベッドで、
(お前はもっと歌うんだよ・・・・・・と神様が生命(いのち)をくださった)
と、素直に信じたという、その同じ想いが、この日のひばりを支えていたのだろう。

 彼女の闘病を見守ってきた、ひばりプロダクションの森啓氏が、ふとこんな話をしてくれた。
「あの人は・・・・・・いま子供のような気持ちなんです。つい先だって九州から帰る日の前日でした。
『あすは九時に病院を出るんです』
と、言ったら、
『じゃぁ私、六時に目を覚ますのね』
と真面目な顔で言うんですよ。トッサに気がつきませんでしたが、彼女は主治医の先生から『目が覚めて三時間は、絶対に安静にすること』と命じられて、それを守っていたんです。実質的に病院を退院する日まで・・・・・・先生の言いつけを守るべきだと、思い込んでいたんですね。
あの人は・・・・・・もう一度ステージに立ち歌うためなら何でもするんだといま子供のような心になっています」

 筆者に寄せられた声のメッセージの中で、ひばりはこうも語っている。
「・・・・・・四十年でしょ?四十年も歌い手として体を動かしつづけていたでしょ?まわりの人が『ゆっくり休んでください』『病人らしく休みなさい』と言ってくれるんですけど『ゆっくり』や『・・・・・・らしく』が苦手で、どうしてもできない。
 ・・・・・・けれどもいままでのひばりとは違います。一時的に元気なひばりの姿より、永久に歌いつづけるひばりを待っていてくださる皆さんへ・・・・・・。私に、もうしばらく・・・・・・時間をください・・・・・・」
 高知県大豊町の「大杉」では、毎年十一月が杉の神様・・・八坂神社の例大祭である。
 コメの収穫を待っていた地元の人々の手で、大杉を一回りする、特大のしめ縄が、この日にない上げられる。しめ縄の中へはワラにまぜて、和紙に書かれた神への願いごとが、共にない込まれることになっている、という。
 神社の宮司、釣井正亀さん(八十二)が静かに言う。
「ひばりさんのご病気については、私もよく存じています。今年のしめ縄へは病気平癒のお願いを、私の手で必ず入れることにしましょう」
 宮司さんは、約束してくれた。
“女王の旅”のスタートに力を貸したこの日本一の「大杉」は、きっといま一度その願いを聞き届けてくれるだろう。  ・・・・・おわり

「ヤングレディ」 1967. 3.27 - さくら

2009/05/14 (Thu) 21:01:56
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速報『・・・でも私は与一さんと別れない』 美空ひばり

《三年間にわたってさまざまな話題をふりまいた、ひばり・与一のコンビが、また一つの噂を生んだ。一時は恋人どうしとさえいわれた二人が、コンビを解消するというのだが・・・・・・》

★コンビ解消の噂の中で・・・・・・
「わたしは、お嬢と与一に、水谷八重子さんと花柳章太郎さんのようなコンビに、将来育ってほしい、と願っています。
 お嬢にとって、与一は大事な存在ですし、与一にとっても同じことです。
 それなのに、コンビ解消だなんて・・・許せない噂と思います」
 美空ひばり・林与一の関係には、なんの変りもない、と母親・加藤喜美枝さんは語る。
 三月十日、フジテレビ・第四スタジオ。
 扉近くのソファに腰をおろしてのことばは、静かだった。
 が、静かな語調ではあっても、そこには憤りがあふれていた。そして、また、ひばり・与一の明日に寄せる、母親ならではの思いも・・・・・・
 この日、スタジオでは、ひばり・与一の二人は、『花と剣』のビデオ撮りにはいっていた。
 ドラマに設定された時代は、江戸時代である。
 しかし、この日は、主人公のひばりが、伝説の恋物語を、自分と、それに恋人役の与一になぞらえて幻想するシーンとあって、ひばりは、おすべらかしに緋の袴、打ち掛け、与一は衣冠束帯という、優雅な王朝時代の衣装。
 コンビ解消、離別という翳りは、いささかも感じられない姿であったが、この二人が、そんな噂にさらされているのは、事実なのである。
 ・・・・噂が生れたのは、二月はじめだった。
 東京・宝塚劇場での、『津軽めらしこ』をめぐり、作者・菊田一夫氏と、ひばりが衝突した直後である。
「役のイメージが、ひばり向きでない」
 ひばり側のこんな言い分に、作曲の古賀政男氏、音楽の『原信夫とシャープス・アンド・フラッツ』も同調し、結局、役をおりてしまったが、このとき、林与一の去就が問題になった。
 彼自身、ひばりと長い間コンビを組んできた仲である。
 しかし、与一は、東宝専属という制約を受けていた。
 そのまま、与一は舞台を踏み、好評を博したが、実はこうした状況が、コンビ解消の噂を生んだのである。
 かてて加え、これは最近きまったことだが、きたる四月の名古屋・御園座の『ひばり公演』に、与一が出演しないことになったことが、コンビ解消から、二人の離別にまで、噂をふくらませた、といえた。
 決定したひばりの相手役は、林成年と大村文武。
 与一不出演の理由は、
「役がぴったりしない」
 きわめてばくぜんとしたものだけに、離別、コンビ解消は決定的、といった印象まで、かなり広い範囲に与えてもいたのである。
 噂が、いささかでも、真実を伝えるものであるなら、ファンに与えるショックはいうまでもない。  ・・・・・つづく

Re: 「ヤングレディ」 1967. 3.27 - さくら

2009/05/16 (Sat) 00:05:15
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★“ここが与一の偉さです”
 だが、加藤喜美枝さんは、きっぱりと、二人の離別を否定するのだった。
「どうして、ふたりが離別したなんて噂が流れるのでしょう。
 わたしには、まったく理解できないことです。
 第一、見てください。きょうだって、二人は『花と剣』で息のあった仕事をしています。
 もし、お嬢と与っこ(註・与一の愛称)の仲がまずくなっているのでしたら、こんなに共演するなんてことは、とても考えられないことでしょう」
・・・・それでは、御園座の公演に、与一が出ないことは、どう考えればいいのでしょうか。
「それは、たまたま、そうなっただけです。お嬢と与一の関係がどうのこうのということとは、まったく無関係ですよ」
・・・・林成年、それに大村文武という相手役がきまったことは?・・・・・・。
「成年さんが、与一と親戚であることは、どなたでもご存じのことではないでしょうか。
 そんな関係にあるのに、もし噂がほんとうで、お嬢と与一の仲が変になっていたら、成年さんが出るわけはありません。成年さんとの共演については、お父さんの長谷川一夫先生にもお会いして、お許しをいただいてもいます」
 きっぱりと、それに怒りすら感じられることばである。
 ひばりが、母親の待つソファのところに姿を現したのは、喜美枝さんが、ここまで語ったときである。
 おすべらかしの髪に、緋の袴そして小裡といった姿のまま、喜美枝さんの傍に腰をおろすと、すっと、タバコに火をつけた。
 静かに、紫煙がただよう。
・・・・ところで、御園座の公演に与一がでないのは、どういうことなのでしょうか。
「(お母さん、どうぞ、といいたげなひばりの目顔にうながされるように)それは、与一の偉さを語ってる、とわたしは思います」
・・・・その成年さんとの共演がこまるまでに、松方弘樹さんの名まえがあがり、今後、彼とコンビを組むともいわれましたが。
「それは、こういうことなの。松方くんは、以前からお嬢と舞台を踏みたがっていました。それで、この間、明治座で、ようやく共演できそうになったけど、東映の仕事に松方くんがつかまり、どうしても体があかなくなってしまいました。
 そのかわり、というわけでもないけど、御園座の公演では、ぜひ、ということになっていました。
 それも、また、映画に松方くんがはいるため、結局実現しなかった、それだけのことです。
 与っこは、こういったのですよ。“ぼくは、まだ若いのだから、いろいろなものを演りたい”って。
 うちのお嬢みたいに、二十年も芸能生活をつづけていると、ひばりという、一本の太い線ができてしまっています。
 その点、、与一は、まだまだ、これからの人でしょう。
 とにかく、いろいろなことを演らなくては、と考えたんですよ」  ・・・・・つづく

Re: 「ヤングレディ」 1967. 3.27 - さくら

2009/05/16 (Sat) 19:50:51
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★すべてはコンビの将来のため
 ひばりは、この間、喜美枝さんの話に黙ってうなずいていたが、『本番です』というディレクターの呼び声に、席をたった。その後ろ姿を、喜美枝さんは、ずっと静かな目で追っていたが、ふっ、とまた視線を戻し、
「・・・・・・与一は、なかなかの野心家だし、それに、いろいろやることは、わたしもいいことだ、と思うしね」
 林与一がひばりと離れ、他の仕事で得たものを持って、またひばりのもとに帰ってくる。
 そのとき、他で与一の得てきた種子は、ひばり・与一のコンビという土壌に根を降ろし、やがて大きく育ち、豊かな実りをもたらすだろう、と喜美枝さんの思いは、ふくらむのだ。
 つまり、与一が、ひばりとの共演以外にも、仕事の場を求めることは、さらに、立派な名コンビを生むための貴重な努力にほかならないのだからというのである。
 インタビューを終え、スタジオをのぞくと、ひばり・与一の二人は、まだ、仕事のなかにあった。
 王朝時代の恋物語のなかにいた。
 それは、ドラマではなく、現実の、二人の強いきずなを思わせる姿のようにも、感じとれるのだった・・・・・・   ・・・・おわり


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